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刀伊の入寇~九州を襲った異民族~: 連れ去られた人々

平安時代に九州北部で発生した「刀伊の入寇」に関して、地図などを加えてアジアの視点から紹介します。なお、本ガイドでは月日を旧暦で表記しています。

高麗王朝による救出

4月13日に刀伊との戦闘が終わり、6月までに被害の状況の把握、刀伊との戦いで功績があった者への褒賞の審議も一段落しました。

これ以降、しばらくの間、日本の史料には刀伊に関する話題があまりみられません。その一方で、当時、朝鮮半島にあった高麗王朝の史料に刀伊に関する史料が残されています。

「鎮溟船兵都部署の張渭男らが海賊船8艘を捕えた。海賊に捕えられていた日本人捕虜男女259人は供駅令の鄭子良を派遣して、日本に送還する。

(『高麗史』 顕宗世家10年(1019年)4月29日条)

 

ここで、記されている海賊とはまさに、日本を襲撃した刀伊族のことを指しています。

つまり、日本での戦闘から半月後にあたる4月29日に、高麗王朝の鎮溟(現在の北朝鮮、元山市付近)で刀伊に連れ去られた日本人が高麗王朝によって救助されているのです。助けられた日本人捕虜は日本へ送り返すために、まず、朝鮮半島南部の金海に送られました。ちなみに、日本人を助けた船兵都部署は、それまでも刀伊による海賊行為に悩まされていた高麗王朝が刀伊に対応するために設置した軍事的な官庁でした。

日本との戦闘が終わった以降の刀伊の動きを図示すると以下の通りです。

(画像はgoogle earthを使用)

長岑諸近の高麗渡航

一方、刀伊が日本を去った後に、日本から高麗へ渡航した人物もいました。それが、当時、対馬島の地方官であった長岑諸近(ながみねもろちか)です。

彼は、刀伊が対馬島に侵入した際に家族とともに捕まり、一時、筑前・肥前へ連れて行かれましたが、刀伊が再び対馬島によった際にひとり脱出することに成功しました。

その後、しばらくは対馬島にとどまっていましたが、刀伊によって連れさられた家族の安否を確認するために高麗の金海府(現在の韓国、金海市)に渡りました。

(画像はgoogle earthを使用)

現在の韓国、金海市(金海市HPより)

彼は金海府で高麗によって保護された日本人と出会い、家族の安否を尋ねることができましたが、結局、助かったのは伯母だけであることが判明しました。

失意の中、彼は高麗によって救出された日本の女性たちの一部を連れて日本に戻りました。

救助された女性たち

長岑諸近によって日本に帰国した女性たちは大宰府で尋問を受けました。

彼女らを尋問した結果が『小右記』に残されています。彼女らが刀伊によって連れ去られ、高麗によって救助されるまでの間の出来事が記されています。

日本を離れ高麗王朝の沿岸地域にやって来た刀伊の船団は明け方に沿岸地域で略奪行為を行う一方で、昼間は島影にかくれ、夜になってから移動をしていました。

しかし、高麗王朝の兵船によって攻撃をうけると、刀伊はその攻撃に堪えられなくなり捕虜として捕まえていた人々を殺害したり、海に投げ捨てたりしました。彼女たちも海に投げ入れられましたが、運よく高麗の船によって助けられ、一命を取りとめました。

その後、彼女らは高麗王朝から食事や衣服などの供給を受け、金海府まで護送されました。

救助された女性の一人である内蔵石女(くらのいわめ)の居住地は「安楽寺所領筑前国志麻郡板持庄」と記されています。板持という地名は現在の糸島市に残されており、地図では以下の通りです。

(画像はgoogle earthを使用)

Subject Guide

岩波 俊彦's picture
岩波 俊彦
Contact:
本ガイドは図書館学習サポーター/図書館TA(Cuter)として勤務した際に作成したものです。

勤務期間 :2014年10月~2016年3月
当時の身分:大学院生(修士課程)
当時の所属:九州大学大学院人文科学府歴史空間論専攻
作成者の所属:01_人文科学府