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教育学をかじる(1)―学校と教育学の誕生―: 3. 教育学における「学校」の検討

本ガイドは、教育学の入門的なガイドとして基礎的な議論を平易なことばで紹介することを目指しています。

3.1 学校の成立と特徴

 教育という言葉とほぼ同時に思い浮かべられる言葉として、学校をイメージされる人も多いのではないでしょうか。それだけ学校は私たちの生活においてなじみ深い存在なのですね。しかし、学校という仕組みは、いかに教えるかという先ほどの「ペダゴジーとしての教育学」の対象となるだけでなく、学校という仕組みの登場が、社会の在り方そのものにインパクトをもたらすものであるので「教育科学」の対象としても、大変興味深いものです。

 そこで、以下では、学校という仕組みについて、教育学がどのようなことを明らかにしてきたのか、その成果を簡単に追いかけてみたいと思います。

 学校という仕組みが登場するのは、近代に入ってからのことだといわれています。当初は、学校に子どもを通わせること=家の労働力が奪われることという認識から、学校への就学率はまだまだ低かったとされています。それでも、学校は社会にとってなくてはならない存在となります。学校という仕組みを普及させた要因は様々ありましょうが、広田(2010)は以下の通り指摘しています(pp.18-23)。第一に、文字文化の普及、第二に、身分社会から階級社会への変容、第三に、国民国家の形成です。とりわけ、第一の文字文化の普及は、近代化の象徴でもある活版印刷技術の誕生によってもたらされたものです。近代国家が学校を生み出したという字面だけの歴史よりも、近代化にともなう社会的な要請として、学校という仕組みが発明されたという理解の方がリアリティに富んでいるように思いませんか。 

 学校の登場は、良くも悪くも社会に大きな変容をもたらしました。以下では、教育学において議論されていることを2点紹介したいと思いますが、その前に学校という仕組みそれ自体がもつ特徴についてもここで触れておきたいと思います。その特徴とは、学校は、子どもに「一斉教授」に耐えうる身体(「学校で学ぶ身体」)を要請しているということです。学校が開発された当初は、子どもの学習をいかに監視し、規律化するかという視点からシステムが構築されていきました(モニトリアル・システムと呼ばれます)。哲学者ベンサムによってパノプティコン(Panopticon 一望監視装置)と名付けられます。このシステムは、囚人からは見られているように感じながら生活しなければならないような構造から、自分で自分を規律化していく監獄の仕組みを参考にしたものでした。同じく哲学者であるフーコーは、近代教育のこのような支配的な体制を、人間の多様性をないがしろにしたものであると批判しました。

 


図3-1 ジェレミ・ベンサムの自画像

3.2 再生産論

 学校は、たくさんの子どもを一度に教えることができるという利点を生かして開発された仕組みでしたが、その副作用ともいうべき効果が次第に明らかにされていきます。

 その代表的なものが、「経済的な不平等や格差が学校教育によって隠ぺいされたり正統化されているのではないか」という問題提起にもとづく議論です。

 例えば、東大理科三類の合格者のうち、その親の多くが社会的に地位が高かったり、高学歴であったりするといったことをイメージしていただくとよいでしょう。東大理科三類をパスするには並々ならぬ努力が求められることはご承知の通りかと思います。いわゆる難関大学に合格した人は、それだけの努力ができることを証明されているといえるかもしれません。しかし、そこでの「努力」はそもそも地頭が良かったり、それだけの努力をする才能があったため、つまり個人の問題だけに整理できてしまうものでしょうか。受験における「努力」は、それを支える様々な環境的要因(塾に通わせてもらったり、浪人をさせてもらえるだけの経済的支援が得られるかどうか、大学へ行くことを応援してくれる家庭に生まれつくことができるかどうか...etc.)によって大いに左右される可能性をはらんだものです。

 私たちは、長い学校生活の中で、主に学力に関する評価を受け続けます。よく考えると、学校での評価はとても限定的な評価であるかもしれないことを忘れ、私たちは学校での成績をとても重要視してしまうようになります。少し古い印象がありますが「一生懸命勉強して、よい大学にいって、立派な大人になる」といったサクセスストーリーは、こうした傾向を象徴的に表しているように思われます。

 説明が長くなりましたが、再生産論とは、私たちの学校での被教育体験が上述したような思考様式を私たちに植え付けてしまうこと、また、それによって学校での成績の違いは、私たちの努力量の差が原因であると考え、結局のところ、裕福な人はそれだけ努力したから裕福なのだという認識をすりこんでしまうことを問題視する議論なのです。

 こうした再生産論において欠かすことのできない論者として、フランスの社会学者ブルデューを挙げることができます。ブルデューは、経済的に裕福であるかどうかだけでなく、文化的な資本(注1)に恵まれた家庭の子どもは、学校で評価される価値に馴染みやすく、比較的地位の高い家庭に生まれた子どもは、そうした文化資本に恵まれることで、その地位を維持しやすいということを指摘しました。

 

3.3 脱学校論

 1970年代中ごろになると、いわゆる「不登校」が社会的に問題視されるようになります。学校という制度が社会から疑われるようになりました。それは、「脱学校論」という教育学における一つの議論を巻き起こします。イリッチ『脱学校の社会』では、「school」を動詞として用いることで、学校という制度がもつ機能について批判的に論じます。いわゆる「学校化」(schooling)とは、以下のように説明されます。

 

  本来、自律的・自発的・能動的におこなわれるはずの学びが、学校によって他律的・強制的・受動的にさせられる行為に転化していく状態(イリッチ 1977)

             

 このような病理的な現象にあらがうアイデアとしてイリッチが提唱したのが、「学習ネットワーク」を活用した脱学校化でした。この学習ネットワークでは、必要な知識を必要な時に、それを提供できる人にその場その場で求めていくことができる環境です。今日では、インターネットを介した学習コンテンツの普及に伴って、知識を得る機会は多様化しつつあるように思われます。以下では、最近の議論も少しだけチェックしてみたいと思います。

3.4 脱学校論の先へ・・・

 ここでは、脱学校化された社会として描かれる未来予想図について触れたいと思います。以下では、学校が生活と一体化する「スクール・コミュニティ」と学校教育のコストが逓減する社会の3つを紹介します(林 2016)。

 

・スクール・コミュニティ

 スクール・コミュニティでは、人口減少に備えて、駅前に地域センターを作り、そこに村役場、公民館、映画館、スーパー、バス停、学校、図書館、保育園、薬局、郵便局、カフェ・レストランなど住民が利用するあらゆるサービスを一か所に集めてしまいます。例えば、学校給食を同じ施設内のレストランで用意したり、学校図書館と公共図書館を一体的に活用したりすることなどができるようなまちづくりを構想します。ここでは、「学校へ行く」から「地域センターに行く」という感覚へと移り変わっていくとされます。

 

・学校教育のコストが逓減する社会

 義務教育は無償といえども、学校教育を維持するためには多大なコストが発生します。それは、通学に伴って発生するバス代や電車代などにとどまらず、一斉授業が生徒の足並みをそろえるために要する時間といったものもコストとして考えられます。

 近年MOOCsと呼ばれるネットを介した動画教材が登場したことで、環境さえ整えることができれば、誰もが家に居ながらにして必要な知識を必要に応じて効率的に学習することができるようになりつつあります。知識を得る作業はこうした自宅学習に任せ、学校では知識を活用することで、その定着を図る反転授業なども現在広がりをみせています。

注1:文化的な資本

文化的な資本とは、言葉づかいや行動様式など身体化されたもの(ハビトゥスとも呼ばれます)や、絵画や書物など物として客体化されたもの、学歴や資格として制度化されたものの三つの形態をもつ資本とされます。

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