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日本古典籍 所蔵資料解説: 狭衣物語 細川文庫本

附属図書館研究開発室等の事業において電子化された日本古典籍を中心とする資料とその解説をまとめたものです。また、活字本の対応ページから検索できる資料もあります。

細川文庫本『狭衣物語』解説

附属図書館研究開発室特別研究員 田村 隆

附属図書館研究開発室特別研究員 今西祐一郎

  

 

平成21年度の附属図書館研究開発室事業として、先に公開した「平仮名絵入太平記(大本)画像データベース」とともに、「細川文庫本『狭衣物語』画像データベース」を公開する。
 細川文庫は肥後熊本藩の支藩、宇土細川家旧蔵の書物群であり、支子文庫とともに本学が所蔵する古典籍の骨格を成している。細川文庫所蔵の『狭衣物語』は枡形本8冊から成るが、その第1・2・4冊の巻末に以下のような奥書を有する(濁点・句読点を私に施した)。

【第1冊】
本云、やよひのなかの二日、さつまのくにたくまのなかにて、東むきにて、あめしめ/\とふりいるが、たゞいまはれたるに、とりゐで、みの時にやかきいで候也。

【第2冊】
やよひのしもの六日、さつまの国たくまのなかにて、あめふりてたゞいまははれたるそらに、むまのをはりにやかきはて候也。

【第4冊】
きさらぎのはじめの六日、さつまの国たくまのあたらしき所にて、ひつじ風ちとふくに、ますちよふたりゐて、かきはて候也。御らんぜん人南無阿陀仏十返かならず申てとぶらひ候へ。

 「本云」とあるので親本にもこれらの記述があったことになるが、いずれの奥書にも「さつま」(薩摩)の文字が見られ、伝来において九州ゆかりの書物であることがわかる。「さつまの国たくまのなか」の「たくまのなか」について森下純昭「『狭衣物語』伝来の一側面―細川本からの照射―」(『岐阜大学国語国文学』20、平成3年2月)は、『地理志料』薩摩国高城郡の項に見られる「託萬」の「中郷村」のことであろうと推測している。

  

(左図) 巻1冒頭 (右図) 巻1奥書

 本書は列帖装による装幀で、金襴の表紙に唐草が描かれる。各冊の寸法は縦17㎝、横18㎝。また、本書は複数の書写者による寄合書であり、写本を収めた箱には極書が添えられている。そこに記された、各冊の冒頭と書写者を挙げておこう。

第1冊 「しよねむの春を」(巻1冒頭) 松殿道基公
第2冊 「かのあすかいには」(巻1後半) 中院殿通純卿
第3冊 「物おもひのはなのみ」(巻2冒頭) 飛鳥井殿雅章卿
第4冊 「ありしねざめの」(巻2後半) 東園殿基賢卿
第5冊 「み山のさとのさびしさは」(巻3冒頭) 大覺寺殿空性親王
第6冊 「としたちかへり」(巻3後半) 實相院殿義尊大僧正
第7冊 「まこと院の女御は」(巻4前半) 持明院殿基定卿
第8冊 「この比世のなか」(巻4後半) 日野殿弘資卿

 極書の末尾には、

右八冊銘々御真筆無紛者也。外題冷泉殿為綱卿御筆因需證之訖。
       元禄乙亥暦 季冬下旬   古筆了珉 光勝(花押) 琴山(印)

とある。伝承筆者および極めの年月によれば、本書は少なくとも元禄8年(乙亥)以前の書写ということになろう。

 異本の多い『狭衣物語』伝本にあって、細川文庫本もまた特異な本文を有する。ただし、「九州大学図書館蔵細川文庫目録」(『語文研究』8、昭和34年2月)によって紹介された後も本書への言及は少なく、『校本狭衣物語』(桜楓社、昭和51-55年)にも採られていない。論考も部分的に触れたものを除けば、前述の森下論文と長谷川佳男「或る異本の様態―九州大学付属図書館細川文庫本『狭衣物語』―」(『論叢狭衣物語4 本文の様相』新典社、平成15年)の二篇にとどまる。

 細川文庫本は近世期の混合本文と見られることがすでに指摘されるが、ここではその一端を紹介したい。以下に掲げるのは細川文庫本の物語冒頭である。読みやすさの便を図り、漢字を適宜あてるなどした。

しよねむの春をおしめどゝまらぬものなりければ、やよひの廿日あまりになりぬ。御前の木立なにとなく青みわたりて、木暗き中に中島の藤は松にとしも思はず咲きかゝりて、山時鳥待ち顔なる池の汀の八重山吹は井手のわたりにことならず見えわたさるゝを、光源氏の身もなげつべきとの給けむもかくやなむど一人見給もあかねば、……

 たとえば流布本は「少年の春はおしめども」と始まり、深川本は「少年の春おしめど」と始まる。「しよねむ(少年)の春を」、「松にとしも」などの表現は、『校本』によれば為相本と一致する。だが、それは必ずしも全巻を通じての類似ではない。 『狭衣物語』の本文は第1類本第1種(A・B)・第1類本第2種(A-L)・第2類本に分類されるが(『校本』)、細川文庫本の本文系統は巻や箇所によって異なる。森下氏は細川文庫本について「蓮空本・大島本(九条家本ともいう)と同類と見なされる」とした上で、巻1に見られる、

しらせばや妹背の山の中におつる吉野の滝のふかき心を

などの和歌の考察を通し、蓮空本(第1類本第2種)との近さを改めて確認する。一方、片岡利博「狭衣物語巻二本文研究ノート―竹の葉に降る白雪―」(『文林』35、平成13年3月)、「狭衣物語巻二本文整理ノート―嵯峨帝譲位―」(『王朝文学の本質と変容 散文編』和泉書院、平成13年11月)は巻2の二箇所について、細川文庫本は為家本・前田本が属する第2類本の本文を持つと述べる。また、萩野敦子「『狭衣物語』跋文の諸相と執筆動機」(『論叢狭衣物語1 本文と表現』新典社、平成12年)は、巻4末尾にある跋文の検討の中で、細川文庫本の跋文についても触れている。

 そのほか、他本には見られない本文が存在する箇所もある。巻1の中程で、狭衣は二条大宮において一台の女車を見かける(下図)。乗っていたのは飛鳥井女君と威儀師であった。女君を連れ去ろうとする威儀師を追い払った後、狭衣は女君の乗る車に同乗して家まで送り届けるのだが、問題は残された狭衣自身の車についてである。諸本では狭衣は、「車待つほど、かくて置き給たれよ。」すなわち狭衣の車が追いつくまでここにいさせてほしいと女君に頼んでいる。ところが、細川文庫本の狭衣は随身に対し、車を返して迎えの馬を寄越すよう指示するのである。

飛鳥井に宿りとらせむこともかたらひて、おはしわづらへば、「御車返しつかはして、御むまいてまいれ。」と言はせ給へば返ぬ。物言ふまじき二三人ばかり御ともにて、この教えきこえつるまゝにをはしたれば、大宮おもてに半蔀ながへとしてつねに見給所なりけり。

 ここで呼ばれた馬は少し後に、

「御まへなどにはづかしう見奉るこそ。」と思に、何事につけても有様のなのめならぬ心地するに、汗は流れてわびしとは思ひながら、ひとえに思ひしづみては、あらぬけしきにて、「道行人のかくと思ふに。」など言ふさまも愛敬づきて見過ぐしがたければ、御むかへの御む(ま)いてまいりたる音すれど、え出で給はずなりて、うたゝねはいかゞし給つらん。    (括弧内は傍記による補入)

として登場するが、これも細川文庫本独自の本文である。しかし、この馬は後の展開に関わることはなく、唐突な印象は否めない。「馬を率てまいりたる音」という表現も車に比べて若干不自然に思われる。因みに、この出逢いに対する狭衣の、

これや殿ゝいさめ給し物ゝねぢけたる宿世ならん。

という思いについても、諸本の「わが宿世にや、さる心つきにけん」(内閣文庫本)といった本文に少し前の場面の「殿(堀川大殿)のいさめ」を独自に結びつけている。細川文庫本にはこのような特色ある表現が散見され、書写者あるいは親本の書写者によってかなり自由に加筆されたことが窺える。

            

承応3年刊本挿絵(九州大学文学部蔵)

 登場人物に関する異文もある。諸本によれば、狭衣は春宮女御である宣耀殿と「いかなりける風の便にか」(内閣文庫本)逢うようになったことが巻1に説明されるが、細川文庫本では、

清涼殿のわたりにも久しうなり給にければ、もし暇もやとおぼして、春宮ざまに参り給つるに、麗景殿より今帰らせ給へりけり。御覧じつけて、「あなめづらしくのへの内ながらも見え給ことのかたきこそ。」とうらみさせ給へれば、……
その夜も清涼殿にわたらせ給ぬれば、本意なくて、たそがれ時にいで給に、二条大宮の方にやりいだしたる女車の引きかへなどして、……

の如く、「清涼殿」や「麗景殿」と記されている。巻3でも諸本に「宣耀殿」とあるところを「清涼殿の女御」と記しており、「せんえう」と「せいりやう」の単純な誤りかとも思われる。

 また、物語に登場する女君の一人である飛鳥井女君はしばしば「道芝の露」と呼ばれている。大系の索引、古典全書の索引によれば、ともに6例が掲出される。加えて細川文庫本では巻2の終わり近くに、

「さてはこの道芝の形見にこそは」ときゝ給に、いとおもひかけずあはれにて、……

の如く、「の露」を付さずに「道芝」と言い表す例がある。諸本では、

「さらば、この底の水屑の縁なりけり」と、いみじうあはれにて、……  (大系212頁)

と別の表現で記される箇所である。「道芝」の呼称については『無名草子』でも「道芝、いとあはれなり」のごとく「道芝」と呼ばれており、わずか一例ではあるが伝本中にも存在することが確認される。『校本』によるかぎり、他本に「道芝」の呼称はない。

 本データベースの画像には、索引との対応を考えて「日本古典文学大系」の頁番号を付した。ただし、上述の事情から細川文庫本と大系の底本である内閣文庫本には異同の甚だしい箇所があり、一部において語句の対応を見ないことを了とされたい。また、第2冊・第5冊・第6冊には綴じ誤りによる錯簡が存する。該当箇所には検索結果の表示画面にその旨を注記した。

 細川文庫は宇土細川家旧蔵の書物群であることは先に述べた。宇土藩3万石は、肥後熊本藩54万石の支藩である。書物の蒐集にあたっては、8代藩主立之の室栄昌院と親交のあった屋代弘賢の尽力によるところが大きいという。弘賢は『古今要覧稿』などで知られ、江戸中期に活躍した和学者である。尚、本藩の細川家の祖は古今伝授などで有名な細川幽斎であり、家に伝わる旧蔵書は永青文庫として熊本大学附属図書館に寄託されている。

 細川文庫の概要は、「九州大学図書館蔵細川文庫目録」(『語文研究』8、昭和34年2月)によって窺うことができる。宇土細川家の6代藩主興文(おきのり)については、雅俗の会編『西国大名の文事』(葦書房、平成7年)にも紹介される。また、受入の経緯については、今井源衛氏が『学士会会報』726号(昭和50年1月)に以下のように述べている(図書目録係山根泰志氏の指摘による)。

この文庫は、九大図書館が昭和二十四年三月に熊本市の古書店天野屋を介して、宇土細川家の蔵書七一三冊を一括購入したものである。例の、敗戦直後の混乱期で、貴重な古書群が巷間に溢れ出したころである。総価格は三〇万円、今日なら二千万円というところか。内容のすばらしいこともあって、当時ほかに熊本大学、大阪大学からも購入の希望が出たが、旧蔵者の、なるべく九州の地元にという希望があって、結局九大に入った。

 細川文庫の代表的な古典籍としては、他に『うつほ物語絵巻』(本年度中に画像データベースを公開予定)、伝為家筆『伊勢物語』、三条西実隆筆『古今和歌集』、同『伊勢物語』、細川幽斎筆『詠歌大概』などがある。文書の類は附属図書館付設記録資料館に所蔵されている。尚、『九州大学五十年史』や『附属図書館要覧』などに細川文庫所蔵として紹介される伏見版『吾妻鏡』(25冊)は、このほど先述山根氏の調査で細川文庫のものではないことが判明した。本書は、蔵書印と図書原簿によれば正しくは八女酒井田の漢学者樋口和堂の旧蔵書「樋口文庫」の一点である。