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日本古典籍 所蔵資料解説: 伊勢物語

附属図書館研究開発室等の事業において電子化された日本古典籍を中心とする資料とその解説をまとめたものです。また、活字本の対応ページから検索できる資料もあります。

伊勢物語 「影印」伝為家筆本 【九州大学図書館蔵】 1/2

 今回、武田本翻刻とともに影印によって紹介する「伝為家筆本伊勢物語」一冊は、既に拙著「伝常縁筆本伊勢物語」において、「根源本第一系統」の証本として紹介、その後、大津有一博士も「伊勢物語に就きての研究補遺篇」において、更にふれておられるものである。その形態は縦十七・五×横十七糎、料紙厚手鳥の子を用い、題簽なく鎌倉期の書写にかゝる胡蝶装の一冊である。見る如く本文一面九行、一行平均十二字詰、和歌一字下げの三行書き、本文行間に勘物を記載し、墨付本文百二十二枚、その奥に奥書等七枚の計百二十九枚よりなる。三重箱入、服紗に包まれ、次の如く古筆「了仲」の

  二条家為家卿
  六半本伊勢物語
  一冊むかしおとこ
  箱書付金粉字四字
  為頼卿筆
  右真蹟無疑者也
   癸丑五月            古筆了仲(印)

という極札を有し、更に又、「為家真蹟疑いなし」とする、古筆「了泉」の書状及び古筆「了祐」の添状、更に又

  這一冊[伊勢物語全部外かすならて哥有]
  為家卿御真蹟風流雖相替不渉異論者也、或人依所望証之而己
    明暦三丁酉年十一月上旬     古筆了佐(印)

という証状を有している。以上の如く古筆家がそろって為家筆と認めているが、もとよりその当否は断定しがたいところである。しかし、その紙質、墨色、書風等より推して鎌倉中期を下らざるものであることは疑いないところである。
 さて「伝為家筆本」が根源第一系統たる故以は既に論証した如く第一にその本文において「天福本」「武田本」はもとより従来の流布本系第一類とされた諸本や、又、古本系の諸本とも異なるのであって、大津有一博士も前記の「補遺篇」で、その点を更に検討されて流布本第一類の「千葉本」と、古本系の「伝為相筆本」の両者の本文を「伝為家筆本」と比較された十一例を表示され、三者の本文が「異ることが明らかに看取せられる」と確認されておられる如く、例えば

章段

伝為家筆本

流布本系一類(千葉本)

古本系(伝為相筆本)

10
いるまのこほり いるまのこほり むさしのくにいるのこほり

28
いでゝいにけれは いでゝいにけれは いでていにけれはいふかひなくてをとこ      

98
おほきおほいまうちきみ おほきおとゝ おほきおとゝ

121
まかりいつるをみて殿上にさふらひけるおりにて    まかりいつるをみて まかつるをみて殿上にさふらひけるおりにて    

等の異同を有しているのである。
 又次に本文行間に記載する勘物においても、例えば

章段

根源第一系統(伝為家筆本)

根源第二系統(伝為氏筆本)

根源第三系統(伝為相筆本)

82
惟高親王母従五位下紀静子 名虎女四品号小野宮文徳第一皇子 惟高文徳第一母従五位上紀静子名虎女四品号小野宮天安二年正月廿三日任大宰権帥 惟高文徳第一母従五位上紀静名虎女四品号小野宮

97
昭宜公基経貞観十四年八月廿五日右大臣左近大将卅七
同年十一月九日摂政元慶
四年十一月四日関白四十五同十二月四日太政大臣
昭宜公基経貞観十四年八月廿五日大臣左近大将卅七 昭宜公基経貞観十四年八月廿日右大臣左近大将卅七

等のみる如き相違を有しているのである。
 更に又、その「抑伊勢物語根源云々」に始まる長い奥書においても、「根源本第二系統」及び「根源本第三系統」とも異る点が指摘されるのであって、それらについては拙著「伝常縁本伊勢物語」に系統別奥書対照表を掲示してその異同を示しておいたところである。かくて、その本文の系統、奥書、勘物の点からみて同じ定家本中、他と系統を異にする特質を有していて、ここに「伊勢物語根源本、第一系統」の証本として位置づけをしたのである。
 さて、この「伝為家筆本」の成立年次はいつ頃であろうか、この点に関し示唆を与えられるのは、書陵部蔵の「伊勢物語」と題する聞書の一本である。即ちその奥の折り込み紙片には左記の如き記載を持つのである。

    此 物 語 事
 高二位成忠卿本[始起春日野若紫歌終迄テ昨日今日之]朱雀院塗籠本是也
 業平朝臣自筆本[始起名のみ立歌終迄テ昨日今日之] 自本是也
 小式部内侍本 [始起君やこし歌終迄テ程雲井歌]  小本是也
当初所書本為人借失乎仍愚意所存為備随分証本書之
 干時建仁二年季夏中旬霖雨之間以仮日終此功抑伊勢物語根源古人説々不同(以下略)

 さてすでに考察した如く「伝為家筆本」の「抑伊勢物語根源云々」の奥書は類似の奥書を持つ「根源本第二系統」伝為氏本と対校した結果、その異同を有する箇所がそのまま「建仁二年本」の「抑伊勢物語根源」の奥書に「伝為家筆本」は殆んど一致を示し、その点では両者の深い関係を伺わせたのである。
 しかし「建仁二年本」の本文が存在するわけでないから、「伝為家筆本」が、「建仁二年本」の内容をそのまゝ示すものであるとは断定できない。又「建仁二年」の識語にしても、それが定家の所為であるかどうかは断定できないが、次に記載する建仁二年本の「抑伊勢物語根源」の奥書が、他からの付載でなければ、「伝為家筆本」の「抑伊勢物語根源」の奥書と極めて近似を示すことによって、両者の本文系統は、同じ流れに立つものであろうことは認められてよいであろう。
 ところで、「伝為家筆本」の「抑伊勢物語根源」の奥書の最後に記載されている「戸部尚書」が、「伝為家筆本」に本来から存在したものであるなら、定家が「戸部尚書」即ち民部卿の任にあった建保六年(一二一八)から、嘉禄三年(一二二七)の間に成立したものとなるわけである。私は既刊の「伝常縁筆伊勢物語」で、「建仁二年本」の内容を「伝為家筆本」が示すものとみなして、建仁年間には民部卿でなかった定家の官職と矛盾するので、「建仁二年本」の奥書にはなくて「伝為家筆本」の最後に存在する

  先年所書之本為人被借失仍為備証本重所校合也    戸部尚書在判 
                           定  家  卿

の部分は、「根源本第二系統本」等による後の補入かと考えた。ところが大津有一博士は阿波国文庫旧蔵の「順覚本伊勢物語」の同奥書の右の「戸部尚書在判」のあとに

  此本非常本之躰。古本根源殊可庶幾。仍書写了。秘蔵物也。後日可清書者也。
   寛元四年丙午三月廿八日勘注了     明 教

とあるところから、同じく「伝為家筆本」にも、「戸部尚書」のあとに

  此本非常本之躰。古本殊所庶幾。仍書写之秘蔵物也。

と記載するので「伝為家筆本」は前記の「先年所書之本云々」以下を「順覚本」からとつて補入したかと想定されておられるのである。
 しかし阿波文庫旧蔵本は「抑伊勢物語根源云々」の奥書の内容が〈根源本第二系統のそれと同一(著者傍点)〉なので、恐らくその本文系統も第二系統のそれに属すると思われそれらの点から、逆の場合も考えられるのでその部分の奥書の関係については、いずれとも決定しがたいのである。したがって「建仁二年本」との関係も判然とせず、その点については、更に後考にまちたいと思う。
 次に、「伝為家筆本」につけて、ふれておかねばならないのは、「承久本」との関係である。池田亀鑑博士の紹介された古本系の一本、「承久本」は現在天理大図書館の所蔵にかかるが、「伝為家筆本」の特質本文に合致する面が多いところから、「承久本」は「伝為家筆本」の系統とみて、その「承久本」の奥書は「建仁二年本」との関係から、定家の所為ではないであろうと考えたが、大津有一博士が前記の「補遺篇」に「桃園文庫蔵」の永正頃の書写にかゝる伊勢物語一本の奥書に

承久三年六月二日未時書之昨日申時書始之度々書写之本為人被借失之間更以家本書写本又書之〈定家卿以自筆本令一校彼本奥書判形供写。干時永正五□月廿六日(傍書)〉  

戸 部 尚 書(花押)

と記したものを紹介されたので、承久本の奥書は定家のものであり、したがって承久本は従来古本系第一類に属していたが、私考の如くまぎれもなく定家本そのものであることも、こゝに実証されたわけである。承久三年定家自筆の本文は「桃園文庫本」では底本の対校に使われているので、承久三年定家自筆本文の全貌は勿論伺い得ない。よって天理大蔵承久本と伝為家筆本の両者をもって、試みに天福本と対校してみるに、天福本と異同を持ちながら、両者の一致する部分は左記の如くなるのである。 

章段

伝為家筆本

承久三年本

天福本(三条西家旧蔵本)

1
おもしろきことゝや

同 左
おもしろきことゝもや

2
あめそほふる

同 左
あめそをふる

9
みることゝおもふ

同 左
みることゝ思ふに

14
おもほえけむ

同 左
おほえけん

16
こゝろうつくしう

同 左
心うつくしく

16
ことに人にも

同 左
こと人にも

23
こひつゝそぬる

同 左
こひつゝそふる

24
むかし男女

同 左
むかしおとこ

40
さこそいへいまた

同 左
さこそいへまた

45
ほたるたかう

同 左
ほたるたかく

46
えたいめんせて

同 左
たいめんせて

54
ゆめちをたとる

同 左
夢地をたのむ

62
まさりかほなみ

同 左
まさりかほなき

64
むかしおとこ女

同 左
昔おとこ

65
いとかなしきこと

同 左
いとゝかなしきこと

65
このおとこは

同 左
このおとこ

69
女のねやもちかく

同 左
女のねやちかく

74
山はへたてねと

同 左
山にあらねとも

83
思ひいてゝきこえけり

同 左
思ひいてきこえけり

86
やれりける

同 左
やれりけり

87
いしのおもてに

同 左
いしのおもて

87
いさりする火

同 左
いさり火

90
にほふらめ

同 左
にほふとも

96
この女のせうと

同 左
女のせうと

107
されとまたわかけれは

同 左
されとわかけれは

107
うたはえよまさりけれは

同 左
うたはよまさりけれは

112
いひちきれる

同 左
いひちきりける

121
まかりいつるをみて殿上にさふらひけるおりにて

同 左
まかりいつるをみて

124
いかなる事を

同 左
いかなりける事を

 以上の如く、天福本との異同二十九箇所にわたり、両本の一致をみるのである。両本相互に書写上の誤写も当然あり得るから、それらを勘案するならば、更に右の一致点は増加するであろう。しかも両者は従来の古本系統の特質本文たる
 (百二十一段)人のまかりいつるをみて殿上にさふらひけるおりにて
等の本文を共有しながら更に 
 (十  段)〈むさしのくに(著者傍点)〉いるまのこほり
 (二十八段)いてていにけれは〈いふかひなくてをとこ(著者傍点)〉
 (九十八段)おほき〈おとと(著者傍点)〉([承久本「おとと」ミセケチにして訂す])
等の特質本文を全く保有しないのである。かくの如く共通する本文上の性格を多く一致して担っているが、この点について、更に福井貞助氏は「伊勢物語生成論」で、「承久本は為家本にない23・93・94段の古本系特質本文を持っている」([同著百頁])と指摘された。但しこの中94段は承久本は

 ち《ん(著者傍線)》(へ)まさるらむ([「ん」をみせけちにして「へ」と訂す])

とあって、古本系特質本文に該当せず、よって伝為家筆本と同一となり除かれることになる。したがって福井氏の御指摘は23、93の両段のみとなるが、前記の定家自筆の承久三年本をもって対校し、その異同箇所を記載したとみなされる桃園文庫本によってみると

章段

伝為家筆本

桃園文庫本

天理大承久本

23
ひとりこゆらん ひとりこゆらん ひとりゆくらん

93
おきておもひ思わひて おきておもひ思わひて おきておもひわひて

となっていて、定家自筆の承久三年本は伝為家筆本とやはり同一であったとみなされる可能性が強く、承久本の特質本文であるとはみなされなくなるのである。
 しからば、試みに桃園文庫本に施されている「みせけち」や「補入本文」の部分をあげて、「伝為家筆本」及び「承久本」と対照してみよう。

章段

伝為家筆本

桃園文庫本

天理大承久本

1

しられすとなむ しられす≪と(補入)≫なむ しられすとなむ

3

けさうしける けさうし≪て(見せけち)≫ける けさうしける

※5

いけとえあはて いけと≪も(補入)≫えあはて いけともえあはて

6

けなましものを ≪きえ(見せけち)≫(け)なましものを ≪け(見せけち)≫(きえ)なましものを

6

おはしける時とや おはしけると時と≪か(見せけち)≫や おはしけるときと≪か(補入)≫や

9

やつはしといひける やつはしと≪は(見せけち)≫いひける 八橋とはいひける

※9

みることゝおもふ みることゝおもふ≪に(補入)≫ みることゝおもふ

14

おもほえけむ お≪も(補入)≫ほえけん おもほえけむ

15

みちのくにゝて みちのくにゝ≪て(補入)≫ みちのくにゝて

16

心うつくしう こゝろうつくしう≪て(見せけち)≫ 心うつくしう

16

いひやりたりけれは いひやり≪たり(補入)≫けれは いひやりたりけれは

21

うしと思ひて うしとおもひ≪て(補入)≫ うしと思ひて

21

この女いと このをんな≪いと(補入)≫ この女いと

23

この女を このをんな≪を(補入)≫ この女を

23

ありけれと ありけれ≪は(見せけち)≫(と) ありけれと

26

えゝすなりにける えゝすなり≪に(補入)≫ける えすなりに

44

いゑとうしに いゑとうし≪に(補入)≫ いゑとうし

47

ありといふ あり≪てふ(見せけち)≫(といふ) ありといふ

58

このをとこ ≪この(補入)≫おとこ おとこ

62

しらすや し≪る(見せけち)≫(らす)や しらすや  

※65

いとかなしきこと いと≪と(補入)≫かなしきこと いとかなしきこと

65

おかしうてそ ≪いと(見せけち)≫おかしうてそ おかしうてそ

67

くもりみはれみ くもり≪み(補入)≫はれみ くもりみはれみ

69

女もはたいと 女もはた≪いと(補入)≫ 女もはたいと

78

まうけせさせ まうけ≪せ(補入)≫させ まうけさせ

※83

まうてたるに ま≪う(見せけち)≫てたるに まうてたるに

87

いきてすみけり いきてすみ≪て(見せけち)≫けり いきてすみけり

89

年へける 年へ≪に(見せけち)≫ける 年へける

91

三月つこもり ≪やよひの(見せけち)≫(三月)つこもり 三月つこもり

94

おとこ有けり おとこ≪をんな(見せけち)≫ありけり をとこ有けり

94

女かたにゑかく をんなかた≪に(補入)≫ゑかく 女かたにゑかく

96

秋まつころをひ 秋≪た(見せけち)≫(ま)つころをひ 秋まつころをひ

※98

おほきおほいまうちきみ おほきおとゝ≪いまうちきみ(著者傍線)(タテ線消去)≫ おほき≪おとゝ(見せけち)≫([おほいまうちきみ])

102

京にもあらす 京に≪は(見せけち)≫(も)あらす 京にもあらす

107

うたはえよまさりけれは うたは≪え(補入)≫よまさりけれは うたはえよまさりけれは

115

おきのゐてみやこしま おきのゐ≪て〈補入)≫みやこしま おきのゐてみやこしま

121

みて殿上にさふらひけるおりにて みて≪殿上にさふらひけるおりにて(補入)≫ みて殿上にさふらひけるおりにて

122

ゐてのたま水 ゐて≪の(補入)≫たま水 ゐてたま水

123

かゝるうたをよみけり かゝるうたをよみけ≪る(見せけち)≫(り) かゝるうたをよみてけり

※39

いたるは ≪あひくりおく(補入)≫いたるは いたるは

 以上の四十箇所中、※印を除く三十四箇所は、補入、乃至、見せけちによって定家自筆本をもって補訂されたとみなされる部分の本文が、そのまゝ、伝為家筆本に一致を示す結果を得たのである。しかして※印六箇所中、(9)(65)(83)(98)段の四箇所の異同は、みる如く「伝為家筆本」と「天理大承久本」とが一致を示すので、恐らくこの四箇所は、「桃園文庫本」の内容をなす当初の本文書写の際に底本によって補正されたのではないかとみなされる。何故なれば、前表の最後の別行に表示した(39)の如く、全く意味の通じないような「《あひくりおく(補入)》いたるは」等の如き本文の補入を持つ点から推して、必ずしも全部定家自筆本そのままとは言いき

伊勢物語 「影印」伝為家筆本 【九州大学図書館蔵】 2/2

 かくて「伝為家筆本」の本文は承久三年の「定家自筆本」に高い一致を示し、その本文は、かなづかいに至るまで、高い純度を保有するものであることを伺わせるのである。以上の点よりするならば、両者は正に本文系統を等しくするものとみなしてよいであろう。しかしながら、天理大蔵「承久三年本」や「桃園文庫蔵本」には、「伝為家筆本」の持つ奥書の形態を具備せず、又「伝為家筆本」も、「承久三年本」の奥書を具備しないのである。そこにいずれかの省略や転載が考えられるとしても、かくて両者を同一のものと断んずることはやはりさけるべきであろう。見て来た如く、両者の持つ本文系統の親子関係より推すならば、承久三年本の定家の識語にみる
 
 度々書写之本、為(レ)人被(2)借失(1)之間、更以(2)家本書写本(1)又書(レ)之

と記すその「家本書写本」こそ、「伝為家筆本」の親本ではなかったであろうか。とまれその本文系譜の近似性より推して両者が同一でなければ、伝為家筆本と天理大承久三年本の祖本は、共通のものより出るか或いはいずれかがその底本となったであろうことを推察せしめずにはおかないのである。さて、その「伝為家筆本」の本文をもって「武田本」と対校するに、その異同箇所は五十八箇所にわたるが本文上、前後から明らかに誤写かと目されるものは

章段

伝為家筆本

武 田 本

18

しらすよみによめみける

しらすよみによみける



 右の部分だけのようである。よって全体にいかに厳密な書写態度を持しているかが伺われるのである。かくて「伝為家筆本」はみてきた如く、定家自筆承久三年本の内容を彷彿せしめる高い本文純度を有し、且綿密豊富に記載された勘物等にも定家の充実した情熱と厳密な考証態度が伺われ、伊勢物語定家本中、極めて系類の少い、根源本第一系統の証本として、今後の研究上にもその貴重な価値は、長く失われることはないであろう。尚、「伝為家筆本」と深い関係を持つ承久三年本に関する資料として紹介しておかねばならないのは、「広島大学図書館」の所蔵にかかる幽斎筆本の存在である。該本は一面十行、一行平均二十二字詰、和歌三字下げの二行書きに書写した室町期の一冊である。桐箱入の表中央に「永禄八年写本」「伊勢物語」と二行に書し、左に「押上蔵書」と記す。本文行間の勘物の墨書は大体武田本のそれである。尚朱筆で一本との校合本文を示し、同じく別本の勘物を朱記する。
 奥書の形態は、三部分より成り、先ず、(一)抑伊勢物語根源の奥書、(二)業平の略伝、(三)武田本の奥書、(四)為相の識語を持つ所謂、「武田本第二類系統」のものであり、該本本文の中心的性格も又右のそれである。しかして、右の(一)の抑伊勢物語根源の奥書の右肩には、

 令校合京極門自筆本無此奥書

と朱記する。次に第二部の奥書として次の如く記す。

 承久三年六月二日未時書之
 昨日申時書始之 
 度々書写之本為人被借失之 
 間更以家本書写本又書之 
                          戸部尚書在判 
 右此奥書者京極黄門以真筆所令透写之也
 此一部以朱令書加之細字分則定家之自筆之本
 以校合書載畢惣全部至于仮名等如彼真筆聊
 不可有相違深仰神慮不可外見者也矣 
  延徳三年[辛亥]四月廿一日           法印堯恵判 

とあり、更に承久三年云々の右側に朱で 

 黄門真筆本唯此奥書而己餘之奥書無之矣

と記し、同じく、法印堯恵の右肩にも朱で

 藤坊雪松院也

と記す。之によってみれば延徳三年、法印堯恵は、「承久三年定家自筆本」を見る機会を得てそれをもって、対校したことが判明する。しかして、第三部の奥書は次の如くである。

 此一帖者以堯恵[藤坊雪松院]自筆之奥書本書写 
 校合及数度権少僧都兼俊雖為秘蔵本令 
 懇望如此令書写者也仮名遣等如本書写訖 
  永禄八季五月廿二日               玄旨(花押)

即ち、見る如く堯恵自筆の対校本をもって、又、幽斎が転写したことが伺われる。
 しかして朱筆で以て施された対校本文は、転写であるため必ずしも全体的に厳密ではないが、大体桃園文庫本と同類のものであることが伺われる。しかして、注目すべきは勘物の朱記である。「伝為家筆本」とほゞ同様のものもあるが、(四十三段、六十五段)等、又、根源本第二系統に近いものもあり(一段、三十九段等)更には、左記の如く、どの系統にも属さないものもあるのである。

(九段)   或本はしりほしの或説云塩尻壺塩といふ物あり 
       其尻似此山其儀未通此語之習故好卑詞 
       寂蓮殊用此説先人命従雖為塩事凡也不可用之 
(一〇一段) 右中弁従五位上藤良近貞観十二年正五任元左少 
       十六年転左中弁

 右の記載に誤りがなく、又「伝為家筆本」勘物にも誤りがないとするなら、両者の奥書が示す如く、両者はその成立の事情を異にすると考えた方が蓋然性が高いように思われる。しかして両者の本文が全面的に一致する面から考えて、やはり前述した如く「伝為家筆本」は承久三年本奥書に示す「家本書写本」より出ずるものと考えざるを得なくなるようである。
 以上の考察が不当でないなら、「伝為家筆本」は建仁二年本とも成立を異にし且又、承久三年本とも成立を異にする唯一の証本となり、その成立は「伝為家筆本」奥書の示すところによって、定家が戸部尚書、即ち民部卿に任じられた建保六年七月以後、承久三年以前の三年間における成立とみなされてくるわけであり、且又、ほゞその内容を伺い得るに至った定家本として、新たに「承久三年本」の系統がそこに設定されてくるのである。

・著者から転載許可:古典文庫第二二九冊 山田清市校「伊勢物語(武田本)」(昭和41年発行) 古典文庫