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日本古典籍 所蔵資料解説: 建礼門院右京大夫集

附属図書館研究開発室等の事業において電子化された日本古典籍を中心とする資料とその解説をまとめたものです。また、活字本の対応ページから検索できる資料もあります。

『建礼門院右京大夫集』解題

九州大学図書館蔵本について

 九州大学附属図書館細川文庫所蔵『建礼門院右京大夫集』は、細川家旧蔵本で、縦二二・七センチ、横一八・一センチの粘葉装一冊本。表紙は薄黄色の地に草花と鳥の文様を織り出した緞子。表紙の中央やや上方に題簽があるが、表題は書かれていない。見返しは金泥を一面に引いた鳥の子紙。料紙は斐紙。遊紙一葉のあと第二葉初行から本文が書かれ、内題はない。墨付九五葉。一面一〇行書き、各行約一八、九字前後。和歌は詞書より約二字分上げ、二行書き。墨付第五〇葉の裏第二行でいわゆる上巻が終り、同第三行から下巻に移り、第九五葉表第五行で本文が終って、残る五行分が空白となっている。その裏に一面九行にわたり、

本云/建礼門院右京大夫集也/此本自筆なりけるを/七条院大納言さりかたき/ゆかりにてこのさうしを見/せられたりけるをうつされ/たるとなん/
以承明門院小宰相本/正元二年二月二日書写畢

の奥書が存する。最後に厚手の鳥の子の白紙四葉が置かれている。
 この本の本文には、(1)第一三五番の和歌の詞書中に加えられた勘物と、(2)~(8)の、

(1) いろこのむときく人〈実家宰相中将とそ(傍書)〉(三四オ2行目)
(2) くもる《月(見消ち)》のよの月(八オ3行目)
(3) くも【り〈ル〉《見消ち》】よをなかめあかしてこよひこそちさとにさゆる月をなかむれ(八オ4行目)
(4) 宮のうへの御つほねへのほらせ給御ともに【まいる〈さはる〉《見消ち》】事ありて(二七オ2行目)
(5) いみしう物のつゝましくて、あさゆふ〈みるは(見かは)〉すかたへの人/\も(三三ウ1行目)
(6) くまのへまいるときゝしをかへりてもし【ハし〈はし〉《見消ち》】をとなけれは(三九オ7行目)
(7) ゆきすくへき心ちもせねは【しり〈しはし〉《見消ち》】くるまをとゝめてみるも(六六ウ10行目)
(8) みはしのあたりの木のけしきもみし〈に(ニ)〉もかはらぬにも(八六ウ10行目)

 
七個所の「みせけち」ないしは「みせけち」による訂正以外には、補入も校合も書入も一切存在しない。書写は全冊一筆で、能書家の手になる極めて丹念な書写本といえる。しかも(6)の「しハし」の「ハし」を、「りし」の如くに誤読されることを恐れて「はし」と校訂していること、また、(8)「みしにも」の「に」を、「す」と誤られることを恐れて「ニ」と傍書するなどのことは、いずれも原本を厳密に書写しようとする忠実な態度を示しているものと推定され、本写本の書写の厳密性を立証するものといえよう。ただし一方においては、(a)一丁オ4行目の、他本における「なにと〈なく(著者傍点)〉」の「なく」に当る二字分の個所が空白になっていたり、(b)八四丁オ7行目が一行分空白となっていること、(c)九四丁ウ一行目「とおもひしにかやうに」のあと、恐らくは書写に使用したであろう原本の丁度一丁分に相当すると思われる、

    よろこひいはれたるなをむかしの事も物のゆへもしると
    しらぬとはまことにおなしからすこそとて
  かめやまやこゝのかへりのちとせをも君か御代にそそへゆつるへき
    返々うきよりほかの思ひいてなき身なから年はつもりて
    いたつらにあかしくらすほとに思ひ出らるゝ事ともをす
    こしかきつけたるなりをのつから人のさる事やなといふ
    にはいたくおもふまゝのことかはゆくもおほえて、せう
    /\をそかきてみせしこれそたゝ我めひとつにみんとて
    かきつけたるを後にみて
  くたきける思ひのほとの悲しさもかきあつめてそさらにしらるゝ
    おひのゝちみんふきやうさた家の歌を(無窮会神習文庫
    所蔵本による)

右の部分が欠落しており、必ずしも欠陥のない完全な写本というわけにはいかない。
 書写年代は、井狩正司氏によれば室町初期か、おそくとも中期を降るものではないとされ、吉水神社所蔵本とともに現存諸伝本中最古の一つとして注目されるべきものという。この本の成立は、奥書によって、作者と親しい間柄にあった七条院大納言が右京大夫自筆本を借りて書写したものを、小宰相が借りて写したか、或は譲り受けてかして小宰相に伝わり、その小宰相所持本が正元二年(一二六〇、鎌倉時代)に誰かによって転写された。九州大学図書館所蔵本は、その正元二年書写本の転写本か、または正元二年本を祖本とする系統の本ということになる。以上を図示すると、

(a) 自筆本-七条院大納言本――――小宰相本-正元二年本-九大本
(b) 自筆本-七条院大納言本即小宰相本――――正元二年本-九大本

の二つの場合が想定され、井狩氏は(a)の推定を穏当とされる。更に、七条院大納言とは、三条内大臣公教の孫で、中納言藤原実綱の女。後掲の右京大夫集の表現から見れば、祖父公教の猶子という形をとったことも考えられるが、はじめ高倉天皇の典侍となり、後に七条院に仕えた人。右京大夫集の第一三番の和歌の詞書中に「大納言の君と申しは三条内大臣の御女とそきこえし」(六ウ6~7)とあることから、この人と作者の間には何らかの交渉があったことが想像され、従って七条院大納言が作者からこの書を借り受けて書写することがあったと推測することは可能である。また、承明門院小宰相は、勅撰作者部類に、土御門院小宰相[従二位家隆女]とあり、彰考館文庫所蔵本の中にも、小宰相 壬生二品女也とみえているので、従二位家隆の女で、『新勅撰集』をはじめ諸勅撰集に多くの歌を残している土御門院小宰相と呼ばれる人であったとされる。
 A系統第一類本に属する三本を、その奥書によって伝来を明示すると、

(1) 自筆本-七条院大納言本-小宰相本-正元二年本-九大本
(2) 自筆本-七条院大納言本-小宰相本-正元二年本-□-正和五年本-書陵部本
(3) 自筆本-七条院大納言本-□-無窮会本

の如くになり、また、右三本の書写の時期は、書風・紙質その他からみて、おおむね、

  九州大学図書館所蔵本-室町中期以前
  宮内庁書陵部所蔵本 -江戸中期
  無窮会神習文庫所蔵本-江戸末期

と推測され、これらの三本を、書写回数と書写年代の古さとの関係で整理して、次のように示される。

事項\順位

1

2

3

書写回数の少ない順 無窮会本 九州大学本 書陵部本
書写年代の古い順 九州大学本 書陵部本 無窮会本

 
 右により、無窮会本は書写回数の少い点で一位の如くに見えるが、(一)現存諸伝本中かなり漢字の使用度が高いこと、(二)書写の時期が江戸末期であること、などの点から、この本に至るまでには何回もの転写が行なわれていたであろうことが推測され、書写の時期が逢かに古い九大本の方がむしろ転写の機会が少なかったであろうことが推定されるので、誤写などの生ずる機会の多寡も九大本の方に少いのであって、九大本の善本たる可能性が強く、また、書陵部本には書写の回数、書写の時期のいずれから見ても、九大本に勝る要素はないとされる。
 次に、本文の優劣については、主要な諸伝本一〇本の本文上における過誤の数は65で、しかも書写に際して犯したと推定される過誤は僅かに15に過ぎず、他の諸伝本に比較して最も少なく、稀に前に指摘した如き欠脱の個所が存在するとしても、なお、全体としては極めて瑕瑾の少ない善本と認められるものであり、同系統の書陵部本・無窮会本に対して優れた本文を持つものであることを論ぜられ、結論として、(一)その書写が比較的厳密で、誤脱の数も甚だしく僅少であり、(二)その上本文の瑕瑾が極めて軽微であること、(三)書写の年代が古く、伝来の経路が明らかであることなどから、書写の年代や本文の性質などの点で、九大本と雁行する位置にあると思われる第二類本に属する吉水神社本が、下冊の発見されていない現在においては、九大本は現存諸伝本中で最も信憑すべきものであるとされる。

著者から転載許可:平林文雄編 和泉書院影印叢刊53『九州大学附属図書館蔵 建礼門院右京大夫集』和泉書院 昭和61年4月刊.