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ジャンヌ・ダルクへの学際的アプローチ : 「恋い」から「問い」への昇華法: ジャンヌ・ダルクの死後史

世界史上の有名人の一人であるジャンヌ・ダルク(1412頃-1431)が、後世の文学・思想などに学際的な受容をされてきたことを紹介していきます。

コラム: 列聖について

ヴァチカン市国にあるローマ・カトリック教会に「聖者・聖女」と認定されるまでは厳しい条件と複雑な手続きを要します。

まず、聖人として認定される(=列聖の前に、下位称号としての「福者・福女」となる(=列福必要があります。条件としては、対象者の「英雄的徳行」及び二つの「奇跡」の証明です。史料や伝承を調査し、上記の言行を立証する書類をまとめてローマ教皇庁に送付し、列福に値するかどうかの審議を受けます。

列福された者の内、上記に加えて更に二つの奇跡が認められた場合、聖人・聖女(Saint)として列聖されます。

通例、以上のような手続きには数十年はかかります。没後6年で列福されたマザー・テレサ(1910-97年)は例外中の例外です。

参考文献

フランスにおける再発見

フランス史の転換点にいたと言えるジャンヌ・ダルクですが、度々文学や絵画で描かれることはあっても、フランス市民に広く記憶された存在ではありませんでした。

19世紀の初め、ジャンヌ人気の火を付けたのがナポレオン・ボナパルトです。国家指導者として初めてジャンヌ賛美の演説をすることで、イギリスを含めた対外戦争のために国民や兵士の士気を高めることを図りました。

以後、ジャンヌの彫像が各都市に作られたり、史実の人間として歴史学の分析の対象になったりする動きが強まっていきました。ジュール・ミシュレ(1798-1874年)は『フランス史』シリーズの中でジャンヌを歴史の中に位置付け、J・キシュラ(1814-1882年)は全五巻に及ぶ『ジャンヌ・ダルク史料集』を刊行しました。

図4 マリー・ドルレアンのジャンヌ像

https://fr.wikipedia.org/wiki/Marie_d%27Orl%C3%A9ans_(1813-1839), Marie d'Orléans (1813-1839), Wikipedia, 2016/2/25

 上図は七月王政期(1830-1848年)のフランス王ルイ・フィリップの次女で彫刻家でもあったマリー・ドルレアン(1813-1839年)が1836年に発表したジャンヌ彫像です。他の芸術ジャンルにおけるジャンヌ表象については、「視覚文化」の頁も参照してください。

この頃から、文学・伝記作品から歴史書、政治的演説に至るまで、フランス・ナショナリズムがジャンヌを取り込んでいく傾向が強まっていきます。

そして、次のボックスで述べるように、ジャンヌを「聖女」にまで担ぎ上げようという運動が19世紀後半から20世紀初頭を中心に展開されていきます。

世界の聖女ジャンヌ・ダルク

1869年に、オルレアンの司教デュパンルーがジャンヌ・ダルクの列聖審理をローマ教皇庁に申請しました。上のボックスで記したような再評価の流れの中で、ジャンヌの地位を決定的にするための動きと言えます。

コラムに記したように、列聖及びその前段階としての列福のための条件は厳しいものです。数十年かけて審査が行われ、ジャンヌが正式に福女として認められたのは1908年のことでした。

そして1920年、ジャンヌ・ダルクは聖女の列に加えられ、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂で盛大な祝典が行われました。ジャンヌ・ダルクがフランスの英雄から、ポーランドからラテンアメリカにまでまたがるカトリック文化圏の聖女になった瞬間です。

ただし、栄光は何の対価もなしに得られるわけではありません。

第二次世界大戦におけるナチス・ドイツに対するレジスタンスや、2015年から翌年にかけてのシリア系難民の流入に対する排外主義など、フランス国内でナショナリズムが高まる際に利用されてきています。イングランド軍をフランスから追い出す契機を作ったジャンヌは、国民感情を刺激するには十分すぎる逸話を持った象徴的人物でした。

ジャンヌ・ダルク及びそのイメージはもはやフランスだけのものではありません。カトリック文化圏からやや縁遠い日本でも広く知られている現在、後世の文化・社会現象に対する多大な影響を含めてジャンヌを国際的・学際的に考えていく必要があるでしょう