書評(book review)という文化がいつ頃から始まったのか、それは難しい質問ですが、
少なくともその発祥は欧米に求められるようです。
18世紀頃から勃興し始めた大衆新聞における書籍紹介であったり、
あるいは同じく18世紀から19世紀前半にかけて創刊された書評雑誌が一応のはじまりと考えてよいと思われます。
当時のイギリスでは、『マンスリー・レビュー』『エディンバラ・レビュー』
『ニュー・ステイツマン』『ロンドン・レビュー』といった雑誌が相次いで創刊されました。
ちょうど、単行本という出版形式が普及しはじめた時期であり、
それを紹介し論評する機関が必要であったという背景があるようです。
イギリス紳士は流行に敏感でなければならず、話題の新刊本について、
(たとえ読んでいなくても)一家言をもてるようでなければ恥をかいてしまうのでした。
そのため、当時の雑誌はほとんどが単行本の書評で占められていたようです*。
* ここまでの記述は丸谷編(2001)6-7頁に依拠しています。
では、日本で書評がはじまったのはいつ頃でしょうか?
これも確たることは言えませんが、新聞書評について見てみると、讀賣(読売)新聞の1876年3月18日付朝刊に、
「良書選びの指針がほしい 新聞に書評欄の新設を望む」という読書からの寄書(よせぶみ)が掲載されています。
その後、1886年には「最近出版書」というコーナーが設けられ、
それが日本における新聞書評のはじまりであったと考えられます(私が調べた範疇ですので、間違っていたらすいません)。
なお、同様に朝日新聞でも1900年には新刊本の紹介記事が組まれるようになっています。
その後、1920年代半ば、関東大震災後の「円本ブーム」(一冊一円の廉価本が続々出版される)を境に、
一般大衆層にまで読書が普及していきます。日本で書評が盛り上がり始めたのはこの頃からでした。
ちなみに、「書評」という日本語自体が生まれたのも、大正末から昭和初年代ごろと言われています。
この時期に、当時の「書物評論」や「新刊書批評」といった言葉が省略されて、
「書評」という言葉が生まれたのではないか(つまり造語なんですね)という説があります*。
* このあたりの記述は、豊崎(2011)184-187頁を参考にしています。
そもそも、書評って何なのでしょうか?
文字通り考えると、「書(本)を評すること」、あるいは「評した文章」を指しますので、
じゃあ「評する」とは一体何なのか、みたいな話になっていきそうです。
ただ、ここではそこまで込み入った話はやめておきましょう。
異論反論はあるかもしれませんが、最も広い意味に解釈すれば、「一冊の本について書かれた文章」なので、
本ガイドでは便宜的に、アカデミックな書評論文から読書感想文、本屋のポップに至るまで、
これらすべてを書評の枠内に入れておきましょう。
ただし、感想文と書評を区別するとすれば、書評には以下のような要素が含まれることになるでしょう。
丸谷(2001)によれば、第一に、それは本の内容の紹介を含みます。
書評を読めば、その本を読んだことがない人でも、ある程度の内容や背景がわかるようになります。
第二に、評価という要素です。
その本の何が面白いのか、興味深いのか、斬新なのか、とどのつまり読むに値する一冊なのか、
書評者はそういった事柄を読者に伝える必要があります。
第三は、書評文それ自体の魅力です。
これは、書評に必須の条件というよりは、良質な書評であるための試金石でしょう。
一流の書評家は、「流暢で、優雅で、個性のある文体」を共通して持っているのだと言われます。
それ自体読み物として面白い文章というわけですね。
最後に、これはかなりハードルの高い話になってきますが、丸谷氏はこう述べています。
しかし紹介とか評価とかよりもつと次元の高い機能もある。
それは対象である新刊本をきつかけにして見識と趣味を披露し、知性を刺戟し、あはよくば生きる力を更新することである。
つまり批評性。
読者は、究極的にはその批評性の有無によつてこの書評者が信用できるかどうかを判断するのだ。
この場合一冊の新刊書をひもといて文明の動向を占ひ、
一人の著者の資質と力量を判定しながら世界を眺望するといふ、話の構への大きさが要求されるのは当然だらう。
(丸谷編2001:8-9。なお赤字部分は筆者強調)
なんだか壮大な話になってきましたね。
後段はともかく、「紹介」や「評価」といった要素が書評には含まれるというのは理解しやすいと思います。
もっとも、あらすじ紹介のみの文章、あるいは逆に本の内容がほとんどわからないような文章であっても、
面白く読めて、読者の興味を引くような立派な「書評」もあるでしょう(豊崎2011:17-36などを参照)。
さらに、「書評」と「批評」の違いは何かとか、宣伝・広告を目的にした文章を書評と呼んでいいのかとか、
書評は読者と著者のどちらに向き合うべきかとか、ネタバレはどこまで許容されるのかなど、
書評をめぐる議論はなかなか尽きることがありません。
これだと決まった見解があるわけでもないので、考え方は十人十色です。
とりあえず本ガイドでは、書評というものをできるだけ広くとらえておきます。
前ページのコラム①では、「日本では書評が文化として十分に根付いていない」と言いましたが、
日本と海外のもっともわかりやすい違いは、その文章量です。
欧米では、2000字以上、時には4000字以上の長い書評が掲載されることはままあるようです。
紙媒体ですと、数ページにもわたって書評文が載っているわけです。
一方、日本はどうかというと、新聞書評などを読んだことのある方はわかると思いますが、
800字~1200字程度の短い書評が主流となっています。
この紙数の少なさについては、昔から繰り返し、「スペースが狭すぎる」だとか、「批判を十分に盛り込みにくい」
といった不満が書評者から出ているようですが、今日に至るまであまり事情は変わっていないようです。
(次のページで紹介する毎日新聞の書評欄や書評専門サイトの登場など、一部で変化も起きています。)
分量の多寡が必ずしも書評の質を決定づけるわけではないと思いますが、やはりその差は歴然です。
なぜ、日本の書評は短文中心なのでしょうか?
この疑問にも定説があるわけではありませんが、豊崎(2011)では、海外の新聞は、
特定の読者にターゲットを絞ったいわゆる「クオリティ・ペーパー」に長文の書評を載せられるのに対して、
大衆新聞がメインの日本では、長文の書評は読者のニーズと合致していないのではないか。。。
こんな推理がなされています。
皆さんは、どう思われますか?
文章の長さ以外にも、本のネタバレを許容するか否かなど、日本と海外の書評文化には色々な違いがあるようです。
なかなか興味深いですね。