日本における刀伊(女真)の来襲は1019年の一度きりですが、刀伊と境界を接していた高麗王朝はその来襲に継続的に悩まされました。
高麗王朝の史料には刀伊の入寇以前にも、刀伊による侵攻の記録が残されています。
例えば、1011年には「東女真(刀伊)の100艘あまりが慶州を攻撃した」という記録が残されています。慶州は高麗王朝の前の新羅王朝の都が置かれていた場所です。
その翌年には清河県・迎日県・長鬐県(現在の韓国、浦項市付近)を刀伊が攻撃したという記録が残っています。
これらの地域を地図に示すと以下の通りです。
(画像はgoogle earthを使用)
地図から分かるように、これらの地域は高麗王朝の南部の地域です。つまり、刀伊の入寇が起きる前から刀伊は高麗王朝の南部にまで侵入し、略奪行為を行っていたのです。
つまり、刀伊の入寇は単に「日本が刀伊族によって攻撃をうけた」という一時的な事件ではなく、当時の東アジア地域において活発であった刀伊の略奪行為が日本にまで達した事件だったと考えることができます。