今回は九州の歴史に関して、取り上げたいと思います。
日本の歴史の中では平和的な国際交流の一方で、外国との緊張関係や衝突も発生しています。
九州は海外との交流の窓口であった一方で、外国との衝突も発生する場所でした。
九州における外国との衝突といえば、モンゴル民族の元王朝による元寇を思い出す方も多いと思いますが、今回はそれよりも200年以上も前、平安時代中期の「刀伊の入寇」を取りあげたいと思います。
「刀伊(とい)の入寇」とは1019年に発生した異民族の来襲事件です。多くの日本史の教科書で取り上げられているので、「そういえば授業で聞いたことある」、という方も多いのではないでしょうか。
当時は藤原道長の権力が確固たるものとなっていた時代で、この前年にあたる1018年には道長の三女である威子が中宮となり、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」という有名な「望月の歌」が詠まれています。
そのような藤原摂関時代に発生した一大事件が、「刀伊の入寇」です。
今回のガイドでは九州で行われた異民族との戦闘について、関連する歴史史料にも触れつつ、「刀伊の入寇」の戦闘の推移や「刀伊の入寇」のその後の動きを概観していきます。
(志賀島から見た博多湾。刀伊の入寇の際にはこの湾にも刀伊が侵入しました。)