日本の被虜人を連れてきた高麗の使者は8月末から9月の初めごろに対馬島に到着しました。高麗使者到来を知らせる書状も藤原隆家から藤原実資のもとに届けられています。
その後、中央政府での決定に従い、高麗の使者は大宰府に向かいますが、その途中で高麗の船一艘が沈没したという記録が残されています。
高麗の使者が大宰府に到着した後については詳しい記録が残されていませんが、翌年の1020年の2月に高麗への返事の書状に関する議論が行われたということは分かっています。
また、高麗の使者が4月ごろに高麗国へ帰ったという記録が残されており、この史料が刀伊の入寇に関する最後の記録です。
救助された日本人の動きを地図に記すと以下の通りです。
(画像はgoogle earthを使用)
なぜ、刀伊が1019年に日本にまで来て略奪行為を行ったのか、その詳しい理由は知ることはできません。また、刀伊(女真)による襲撃はこの一回だけで終わりましたが、その理由も分かりません。ただし、一方でこの後も高麗王朝は刀伊(女真)によって略奪被害を受けていることは事実です。
日本の思わぬ反撃に日本にまで行くことをためらうようになったのか、それともわざわざ日本にまで来て略奪行為を行うことが非効率的と考えたのか、このような問いに答えるためには、新しい史料や考古学的遺物の発見を待たなければなりません。
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