4月16日に大宰府から京都に送付された書状には、戦闘の経過が詳細に記載されています。
まず、4月7日に刀伊は筑前国の怡土郡(いと)を襲い、その後、志摩郡、早良郡(現在の福岡市西部から糸島市にかけて)へと移動しました。さらに、刀伊の船の様子や具体的な戦闘の様子などは以下のように記されていました。
「その賊徒の船は、長さが12尋や8・9尋で、一隻に櫂が3・40本あり、50人から60人ほど乗っている。」(1尋はおよそ1.5メートルから1.8メートル)
「2・30人が刀を持って、勢いよく駆け回り、その後を弓矢や楯を持った者が7・80人ほどつき従う。・・・馬や牛を殺して食べたり、犬を食べたりする。老人や子供は、皆ことごとく斬殺された。怯える人々を連れ去り、船に乗せたがそれが4・500人にも及んだ。」
(『朝野群載』巻20異国・寛仁3年4月16日大宰府解)
もちろん、日本側も刀伊の攻撃に対応しますが、襲撃が突然であったため兵士の準備が整わず、当初は苦戦をしいられます。特に、刀伊の弓は強力だったようで、「楯を射抜いて、中の人に命中する」という記録が残されています。
怡土郡・志摩郡・早良郡のおおよその場所を現在の福岡県の地図で示すと以下の通りです。
(画像はgoogle earthを使用。)
4月8日に、刀伊は能古島に移動しました。日本側は外敵防備を目的とした施設である「警固所」に人員を派遣し、刀伊への防禦体制を整えました。この「警固所」という名称は、現在でも福岡市中央区の警固という地名として残っています。
(天神にある警固神社)
翌9日に、刀伊は博多周辺を攻撃します。前日に兵を派遣した警固所周辺でも戦闘が行われ、日本側は十数人を射殺する戦果をあげています。
また、『小右記』には「刀人、更に下船し莒前宮を焼かんと欲す」と刀伊が箱崎宮を燃やそうとしたという記録が残されています。
この日、刀伊は日本側を攻略することができず、能古島に撤退します。
10日から11日にかけては風も強く、波も高かったため、両者の間で直接、戦闘は行われませんでした。ただし、刀伊は11日の未明に早良郡から志摩郡の「船越津」に移動しています。船越という地名は現在でも糸島市に残されています。
(対岸から見た現在の糸島市船越付近。)
(画像はgoogle earthを使用)
一方、日本側も11日から12日の間に兵船38艘を準備し、さらに刀伊の再上陸に備えて、兵士の配備を行いました。
4月12日に、刀伊が再上陸すると大きな戦闘が行われました。この戦闘で日本側は40人あまりの刀伊を射殺し、2人の捕虜を得ています。刀伊は博多周辺から撤退し、翌13日に肥前国の松浦郡に移動し、ここで前肥前介源致が率いた兵と戦闘し、九州沿岸から撤退しました。
このように刀伊との戦闘は、3月の末から4月13日まで、比較的に短期間のうちに行われました。しかし、その一方で日本には大きな被害をもたらしました。『小右記』で伝えられている各地の被害を合計すると殺害された人が365人、連れ去られた人が1289人にのぼります。
およそ1300人の人が連れされていますが、これらの人は労働力として利用する目的があったのではないかと考えられています。
一方、日本側も刀伊側の兵士を数名、捕虜にしましたが、これらの兵士は全て、高麗王朝の民でした。彼らは日本側に「高麗王朝が刀伊族を防ごうとして派遣したが、逆に刀伊族に捕えられてしまった」と弁明しています。
日本側は高麗の民が刀伊族と偽って来襲したのではないかと疑いますが、後に高麗が刀伊に連れ去られた日本人を救出して送還してきたことによって、その疑いは晴れたようです。
ここまでの一連の刀伊の動きを整理すると以下の通りです。
4月7日~9日までの刀伊の動き(往路)
4月11日から13日までの刀伊の動き(復路)
(画像はgoogle earthを使用。)