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人生の迷子へ贈る、吉田松陰のことば: 吉田松陰ってどんな人?

NHKドラマ「花燃ゆ」を見て惹かれ、九州大学の講義「志教育I」を通して、私がちょっと惚れ込んだ吉田松陰。彼のことばが、150年の時を経てCute.Guideで蘇る!!

Introduction: 吉田松陰とは?

  

   
吉田松陰をひとことで説明すると、

明治維新で活躍した人材を多く輩出した優れた教育者です。

 

彼が松下村塾で教育を行ったのは、およそ2年間といわれています。

たったこれだけの期間で、

結果的に、伊藤博文や山縣有朋をはじめ、おおくの人材を輩出しました。

 

しかし、彼の過激ともいえる特異な思想から、

当時の吉田松陰や松下村塾への世間の目は厳しいものでした。

吉田松陰の功績が注目されるようになったのは、

彼の死後、明治になってからです。

 

 

この世に出回っている名言は、

その多くが成功者によって語られています。

 

その一方で、

彼の人生は失敗して、失敗して、失敗する。その連続でした。

それにもかかわらず、

なぜ、負け組ともいえる彼のことばが、今もなお語り継がれているのでしょうか。

  

門下生たちの活躍の原動力となった吉田松陰のことばを、

次のページで、少しだけかじってみることにします。

 

 

西暦 吉田松陰の年齢 事柄
1830 1 長門国萩松本村に生まれる.虎之助と名付けられる.
1834 5 叔父吉田大助賢良の養子となる
1835 6 吉田家を嗣ぐ.大次郎と改称.
1839 10 藩校明倫館で初めて家学を教授する
1840
 
11
 
初めて藩主毛利慶親の前で『武教全書』戦法篇を講義し,
強い賞賛を受ける
1844 15 藩主の親試があり『武教全書』及び『孫子』を講じて激賞される
1846 17 長沼流兵学の免許を受ける
1850 21 8月,九州遊学に立つ.12月,萩に帰る.
1851
 
22
 
兵学研究のため藩主に従い東行.江戸に着き,佐久間象山などに学ぶ.
その後,東北へ亡命.
1852
 
23
 
江戸に帰る.帰国命令が下り,萩へ帰る.謹慎しつつ国史の研究に没頭
亡命の罪により士籍・世禄を奪われる.通称を松次郎と改める.
1853
 
 
24
 
 
諸国遊学の許可を得て萩を発つ.寅次郎と改称.
アメリカ船来航を聞き,浦賀に直行.佐久間象山に洋学を学ぶ.
ロシア艦乗り込みのため長崎へ行く.
1854
 
 
25
 
 
金子重輔と米国軍艦に乗り込み海外渡航を企てるが失敗し,自首.
幕府により自藩幽閉を申し付けられる.萩の野山獄につながれる.
二十一回孟子の説を作り発憤の理由をのべる.
1855
 
 
 
26
 
 
 
一緒に米国軍艦に乗り込んだ金子重輔の獄死.
松陰は彼を追悼し,獄中でありながら行状記及び詩を作る.
野山獄中で獄人のため『孟子』の講義をする.
野山獄から出て,杉家での禁錮を命じられる.(自宅謹慎)
1856
 
 
27
 
 
七生説を作り,七生報国の信念を示す.『孟子余話』を著わす.
幽室において近親子弟に『武教全書』を講義する.
松下村塾が出来る.
1857
 
28
 
松陰の尽力により,野山獄・獄人である富永有隣の獄が免ぜられ,
松下村塾の師となる.松陰,松下村塾を主宰する.
1858
 
 
 
 
29
 
 
 
 
『狂夫之言』を作る.『対策』『愚論』を梁川星巌に送る.
赤根武人を亡命させ伏見の獄舎を破る策を与える.
間部要撃策をたて同志17名の血盟書を作る.借牢の形式で投獄令が出る
獄に下る.
水戸の密使が萩を訪れ,獄中より彼らと画策しようとしてならず
1859
 
 
  
 
   
 
 
 
30
 
 
 
 
 
 
 
 
要駕策を立案.門生ら奔走のかいなく不成功.時事を憤慨して絶食.
門人野村和作に要駕策を決行させるため大原重徳への書面を携え,
京都に向かわせる.和作の兄である入江杉蔵はこの策動のため岩倉獄に
投獄される.その後,和作も投獄される.この頃,門人の多くは松陰に
批判的となり敬遠離反の傾向が強まる.東送の命令が下り,江戸に到着
幕吏の尋問を受け,伝馬町の獄舎につながれる.
口書の読み聞かせが行われる.『留魂録』を作る.
罪状の申し渡しが行われる.刑死.
小塚原回向院下屋敷常行庵に葬られる.

「吉田松陰関係略年表」
奈良本辰也著,吉田松陰著作選 留魂録・幽囚録・回顧録
株式会社講談社,2013.11.11 p438-443 改変


  

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