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吉田松陰をひとことで説明すると、
明治維新で活躍した人材を多く輩出した優れた教育者です。
彼が松下村塾で教育を行ったのは、およそ2年間といわれています。
たったこれだけの期間で、
結果的に、伊藤博文や山縣有朋をはじめ、おおくの人材を輩出しました。
しかし、彼の過激ともいえる特異な思想から、
当時の吉田松陰や松下村塾への世間の目は厳しいものでした。
吉田松陰の功績が注目されるようになったのは、
彼の死後、明治になってからです。
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この世に出回っている名言は、
その多くが成功者によって語られています。
その一方で、
彼の人生は失敗して、失敗して、失敗する。その連続でした。
それにもかかわらず、
なぜ、負け組ともいえる彼のことばが、今もなお語り継がれているのでしょうか。
門下生たちの活躍の原動力となった吉田松陰のことばを、
次のページで、少しだけかじってみることにします。
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西暦 | 吉田松陰の年齢 | 事柄 |
1830 | 1 | 長門国萩松本村に生まれる.虎之助と名付けられる. |
1834 | 5 | 叔父吉田大助賢良の養子となる |
1835 | 6 | 吉田家を嗣ぐ.大次郎と改称. |
1839 | 10 | 藩校明倫館で初めて家学を教授する |
1840 |
11 |
初めて藩主毛利慶親の前で『武教全書』戦法篇を講義し, 強い賞賛を受ける |
1844 | 15 | 藩主の親試があり『武教全書』及び『孫子』を講じて激賞される |
1846 | 17 | 長沼流兵学の免許を受ける |
略 | ||
1850 | 21 | 8月,九州遊学に立つ.12月,萩に帰る. |
1851 |
22 |
兵学研究のため藩主に従い東行.江戸に着き,佐久間象山などに学ぶ. その後,東北へ亡命. |
1852 |
23 |
江戸に帰る.帰国命令が下り,萩へ帰る.謹慎しつつ国史の研究に没頭 亡命の罪により士籍・世禄を奪われる.通称を松次郎と改める. |
1853 |
24 |
諸国遊学の許可を得て萩を発つ.寅次郎と改称. アメリカ船来航を聞き,浦賀に直行.佐久間象山に洋学を学ぶ. ロシア艦乗り込みのため長崎へ行く. |
1854 |
25 |
金子重輔と米国軍艦に乗り込み海外渡航を企てるが失敗し,自首. 幕府により自藩幽閉を申し付けられる.萩の野山獄につながれる. 二十一回孟子の説を作り発憤の理由をのべる. |
1855 |
26 |
一緒に米国軍艦に乗り込んだ金子重輔の獄死. 松陰は彼を追悼し,獄中でありながら行状記及び詩を作る. 野山獄中で獄人のため『孟子』の講義をする. 野山獄から出て,杉家での禁錮を命じられる.(自宅謹慎) |
1856 |
27 |
七生説を作り,七生報国の信念を示す.『孟子余話』を著わす. 幽室において近親子弟に『武教全書』を講義する. 松下村塾が出来る. |
1857 |
28 |
松陰の尽力により,野山獄・獄人である富永有隣の獄が免ぜられ, 松下村塾の師となる.松陰,松下村塾を主宰する. |
1858 |
29 |
『狂夫之言』を作る.『対策』『愚論』を梁川星巌に送る. 赤根武人を亡命させ伏見の獄舎を破る策を与える. 間部要撃策をたて同志17名の血盟書を作る.借牢の形式で投獄令が出る 獄に下る. 水戸の密使が萩を訪れ,獄中より彼らと画策しようとしてならず |
1859 |
30 |
要駕策を立案.門生ら奔走のかいなく不成功.時事を憤慨して絶食. 門人野村和作に要駕策を決行させるため大原重徳への書面を携え, 京都に向かわせる.和作の兄である入江杉蔵はこの策動のため岩倉獄に 投獄される.その後,和作も投獄される.この頃,門人の多くは松陰に 批判的となり敬遠離反の傾向が強まる.東送の命令が下り,江戸に到着 幕吏の尋問を受け,伝馬町の獄舎につながれる. 口書の読み聞かせが行われる.『留魂録』を作る. 罪状の申し渡しが行われる.刑死. 小塚原回向院下屋敷常行庵に葬られる. |
「吉田松陰関係略年表」
奈良本辰也著,吉田松陰著作選 留魂録・幽囚録・回顧録
株式会社講談社,2013.11.11 p438-443 改変