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ヨーロッパ文学の〇〇主義って何?:古代ローマの文学: ちょっと深読み:『アエネーイス』における戦争と平和

啓蒙主義、古典主義、ロマン主義などなど…。文学で必ず出くわすこの〇〇主義をその思想史的・歴史的背景と共に俯瞰します。

『アエネーイス』とホメロス

ラテン文学はギリシア文学を母胎として生まれ、ギリシア詩人たちの作品を範に独自の文学を生み出していきました。ラテン文学の代表的作品たるウェルギリウスの『アエネーイス』も同様にギリシア文学、特にホメロスから多大な影響を受けています。その影響は『アエネーイス』という作品構成の点から見ても明らかです。ホメロスの『イーリアス』はトロイアとギリシアの戦争を、『オデュッセイア』は英雄オデュッセウスのトロイア戦争終結後の放浪描いています。一方で、ウェルギリウスの『アエネーイス』前半の六歌は主人公アエネーアースの放浪を、後半六歌はイタリア人とトロイア人の戦争描いています。すなわち、ウェルギリウスはこの作品においてギリシアの偉大な詩人の作品構成を反転させているわけです。

しかし、ウェルギリウスはホメロスの叙事詩を単に真似て『アエネーイス』を歌っているわけではありません。このことは『アエネーイス』の一行目にすでに表れています。ウェルギリウスは次のように歌い始めます。

  「戦いと英雄を私は歌う(第一歌:一行)

『イーリアス』第一歌の一行目では詩人は「ムーサよ、語れ」と言って、詩を司る神ムーサに主題である「アキレウスの怒り」を歌うように促します。つまりホメロスにおいては、ムーサホメロスという媒介(=メディアを通じて「アキレウスの怒り」を歌っているのです。人間神の意志媒介する存在に過ぎません。それに対してウェルギリウスは、イタリアでの戦いと英雄の冒険譚を「私は」歌うと言っています。すなわち、ここでは人間はもはや神の意志の単なる媒介ではなく、物語を歌う主体となっているのです。

もちろん、『アエネーイス』はアエネーアースによるローマ建国という「運命」が実現されるまでの物語ですし、しばしば英雄は神々からの援助を受けます。ところで「運命」はラテン語でfata(ファータ)と言います。この fata は「言う、話す」という意味のfari(ファーリ)という動詞から派生したものであり、もともと「言われたこと、話されたこと」を意味していました。「言う」にしても「話す」にしても主語が必要であり、アエネーアースの「運命」の場合、それは最高神ユピテルが「言った」ことでした。したがって、アエネーアースの運命は神によって定められた=言われたことであり、アエネーアースが神々の意志に従って「運命」を成就させるという点で、確かに人間は神々の意志の媒介と言えるかもしれません。

しかし、ウェルギリウスは「私は歌う」と「言って」人間である自らの意志を高らかに宣言します。彼の言葉もまた元来の意味での「fata =言われたこと」であるーーこのようにメタの次元で考えるならば、『アエネーイス』における英雄の「運命」人間であるウェルギリウス神であるユピテル媒介にして定めたことになり、ここに神と人間のある種の逆転関係が生じることになります。要するに『アエネーイス』において「運命」ギリシア的な神々の「機械仕掛け」ではもはやなく、人間の意志が介在するものとなっているのです。実際、この叙事詩に描かれる「運命」の成就を目指す英雄の母神ウェヌスと「運命」に抗う神々の女王ユーノーの会談の際に、「運命」を定めた最高神ユピテルはどちらの女神にも味方せず、人間の戦いに「運命」の成就を委ねます。『アエネーイス』において(メタの次元ではあるものの)「運命」「定める=言う=歌う」ことにおいても、「運命」を成就させることにおいても、人間はもはや(ギリシア悲劇の傑作『オイディプス王』が典型的に示しているような)媒介ではなく、主体の一つとなっているのです。

(画像:作者不明『ムーサのあいだに座るウェルギリウスのモザイク画』3世紀頃

ウェルギリウスが見たローマ人の「運命」

では、ウェルギリウスが『アエネーイス』に託して描いたであろう、神々に従いつつも人間が成就させるべきローマ人の「運命」とは如何なるものなのでしょうか。この点においても、ウェルギリウスとホメロスあるいはローマとギリシアの対比が重要になってきます。

『イーリアス』において、トロイアでの神々に助けられた英雄たちの戦いがあたかも天上にいる神々の視座から眺めるが如くに華々しく描かれていましたが、『アエネーイス』第二歌においては、トロイア人である主人公アエネーアースという謂わばレンズを通して内側の視点から、「思い出すのを恐れ、悲しみにひるむ」ような生々しいトロイア陥落の場面が描かれます。英雄が語る戦争は、ホメロスにおけるそれのような栄光と誉れを生む「英雄」的なものでは決してなく、勝者も敗者も狂気に支配された殺戮でしかありません。

そのような悲惨な戦争から落ち延びたアエネーアースらの新天地を求めて地中海を放浪、クレタ島での平安な生活という幻想、目的の地イタリアでの「恐ろしい戦い」も予言ーートロイア人の「運命」は平和と戦争のあいだで揺れ動きます。実際、アエネーアースの放浪は、『アエネーイス』の戦いと『イーリアス』のそれが対照的であったのと同様に、オデュッセウスの放浪と対照的な描かれ方をします。確かに、両英雄は放浪のなかで数々の苦難に遭います。しかし、『オデュッセイア』の英雄の場合は彼の英雄的な誇り高さ武勇に対する誉れの感情が災いして仲間を失いますが、アエネーアースの場合は苦難に直面した際、あるときは和平を乞い、またあるときは戦うことなしに逃げ去ります。

放浪のなか、戦争の体験から来る平和への希求と来るべき戦争の予感のあいだで揺れ動くアエネーアースはしかし、天上の神々からではなく冥府の死した人間である父アンキセスから目指すべきビジョンを手に入れます。ローマを築く「運命」を担った息子と再会した父は次のように言います。 

    「ローマ人よ、心に銘じておくのだ。そなたが熟達すべき道は、

    権威によってもろもろの民を治め、平和のために法を敷くこと、

    服従する者は許し、傲慢な者を制圧することである」(第六歌:八五一から八五三行)

ギリシア的世界観では『イーリアス』が典型的に示しているように、戦争という闘争が人間に活力を与え、その輝きがとして描かれていました。しかし、ウェルギリウスは『アエネーイス』においてそれとは違った戦争観を提示します。確かに、人間が人間である限り、いや神々の世界であっても戦いはなくならない。しかし、戦争がなくならないのであれば、戦争それ自体を目的化するのではなく、相対的にとらえて平和確立のための手段とするーーこれこそがウェルギリウスにとっての戦争と平和の止揚でした。

このギリシア的戦争観とローマ的戦争観の違いはイタリアでのアエネーアースの戦いの描写にも表れてきます。トロイア戦争の「再来」であるイタリアでの戦いにおいて、かつてのギリシア側にあたるラティウム側の総大将であり、「もう一人のアキレウス」であるトゥルヌスの戦争の勝敗で全か無かを決しようとする戦争観は非常にギリシア的なもので、実際、この戦争観ゆえに彼はアエネーアースの決闘に応じずに最後まで戦争で全てを決することに拘っていたのでした。

ところで、この『アエネーイス』という叙事詩はローマの初代皇帝となったアウグストゥスの依頼によって作られたものでした。第二のローマ建国者たるアウグストゥスの属するユリウス氏族はアエネーアースの息子であるアスカニウス(別名ユニウス)の家系であると言われ、アエネーアースの姿にはアウグストゥスを思わせる箇所が散見されます。このアウグストゥスと重なる部分のあるアエネーアースに対して、その父アンキセスをしてウェルギリウスが言わせたのが先の言葉でした。したがって、ウェルギリウスは『アエネーイス』およびアエネーアースの姿を通して、戦いの末に初代皇帝の座に就いた「未来のローマ人」アウグストゥスに対してローマの戦争のあるべき形を語っているのです。否、ウェルギリウスはアウグストゥスだけではなく、その更に「未来のローマ人」全てに語りかけているのかもしれません。彼は「ローマ人よ」と語りかけているのだから。

相手を滅ぼす戦争ではなく、制圧し許す戦争によって平和を築くーーこれがウェルギリウスの見た戦争と平和の止揚ローマ人の実現すべき「運命」だったのかもしれません。確かに『アエネーイス』において英雄は最後に復讐に駆られてトゥルヌスを殺してしまいます。しかし、このことこそがウェルギリウスにとって重要だったのではないかと思われます。「運命」の実現が完全に神々に委ねられていたのであれば、「運命」がギリシア的な「機械仕掛け」であったならば、このようなことは起きなかったかもしれません。逆に言えば、「運命」の実現が人間の手に委ねられていたからこそ、(半神とは言え)人間であるアエネーアースはこのような過ちを犯してしまったのではないでしょうか。人間である以上、ローマ人の「運命」には過ちと困難が伴います。それでも、その実現に向けてローマ人は、人間は力を尽くすべきであるーこれこそ動乱の時代を生きたウェルギリウスが『アエネーイス』に仮託して歌った「未完」の希望ではないでしょうか      

(画像1枚目:ウェルギリウス廟公園収蔵『ウェルギリウス胸像』

(画像2枚目:ジャン=バティスト・ウィカル『アウグストゥス、オクタウィア、リウィアに「アエネーイス」を読み聞かせるウェルギリウス』170年

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