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ヨーロッパ文学の〇〇主義って何?:古代ギリシアの文学: 導入:古代ギリシアの地理と歴史について

啓蒙主義、古典主義、ロマン主義などなど…。文学で必ず出くわすこの〇〇主義をその思想史的・歴史的背景と共に俯瞰します。

イントロダクション

古代ギリシア神話や文学、哲学をはじめ、その様々な文化的遺産によって後世のヨーロッパ世界に大きな影響を与えています。しかし、古代ギリシアの文化を語るには、まずもってその地理歴史を掴んでおく必要があります。というのも、古代ギリシアの文化において(ほかの文化にも共通して言えることですが)、その地理的条件言語成立史が古代ギリシア文化全般を特徴づけているからです。では、「古代ギリシア」と呼ばれる地域はどこからどこまでで、どのような地理的条件を備えているのか、また「古代ギリシア」と呼ばれる時代はどこからどこまでで、どのような歴史的発展を遂げていったのか見ていきましょう。(写真:古代ギリシアの象徴 アテナイのアクロポリス

古代ギリシアの地理と歴史

【古代ギリシアの地理】

まずは古代ギリシアの地理について概略していきます。古代において「ギリシア」と呼ばれていた地域はバルカン半島の南端の地域を言います。具体的には、北はマケドニアとの間をカムブーニア山脈とギリシア最高峰を誇るオリュンポス山によって、西はエペイロスとの間をピンドス山脈によって区画され、東はエーゲ海、南はコリントス湾に囲まれている地域とその南に位置するペロポネソス半島からなる地域を指します(おおよそ、赤いラインで囲まれた地域)。なお、古代ギリシア文明の祖先とも言われるミノア文明が繁栄したクレタ島(地図ではクレタ海の南に位置します)や強大な帝国を築き上げたアレクサンダー大王が生まれたマケドニアなども古代ギリシアに含まれることがあります。いずれにせよ、「ギリシア」はその境界が比較的はっきりとしています。

「ギリシア」の約8割は山地で形成されており、陸上の交通は極めて困難です。また、雨量が少なく、山がちであるため、航行に適した河川もありませんでした。それゆえ、ギリシア人は常に山にも海にも近い場所に居住し、海洋ルートを通じて盛んに交易をしていました。海洋交易において重要になるのはの存在です。ギリシアの港は、西のイオニア海沿岸が単調な海岸線のために良港が少なかったのに対し、東のエーゲ海沿岸は複雑な地形になっており、非常に多くの良港が存在していました。そのため、貿易品とともに文化も東方よりギリシアへ移入されることが多かったようです。

さて、エーゲ海を挟んで「ギリシア」の東方に位置するアナトリア半島は、ギリシア人によって「アジア」と呼ばれていました。この地方は現在のアジアの語源となった地方で、鉄器を初めて本格使用したとされるヒッタイト王国(帝国)が当時存在していました。この「アジア」のエーゲ海沿岸の地域を「小アジア」と呼びます。アイオリスとイオニアから成る「小アジア」は「ギリシア」ではないものの、古代ギリシアの形成、すなわち古代ギリシアの歴史と文化において大きな役割を担っていました。

(地図:ロバート・モアコット/桜井万里子監修、青木桃子訳『地図で読む世界の歴史 古代ギリシア』、河出書房新社、1998年、55頁)


【古代ギリシアの歴史】

さて、古代ギリシアはどのように形成されていったのでしょうか。次に古代ギリシアの歴史を概略していきます。古代ギリシアの形成には、中央アジアに住んでいたインド=ヨーロッパ語族の民族の移住(あるいは移動)が深く関係しています。

紀元前2000年頃、最初に彼ら(インド=ヨーロッパ語族)の一部が侵入した際、「ギリシア」には既にクレタ島のミノア文明(伝説上の王 ミノア王の名前に因む)が栄えていました。ミノア文明は非常に洗練されたクノッソス宮殿を中心とする宮殿文化を誇り、「小アジア」地域だけでなく、ヒッタイトやメソポタミア、エジプトとも広く交易していました。そもそも、ミノア文明は交易によって生まれた文明です。考古学の調査によると、エジプトから来たとされるミノア人は新石器時代の紀元前5000年ごろに交易ルートを拡大させ、ミノア文明はそれに伴って発達した大きな集落をもとに紀元前3300年頃に形成されたようです。高度な文明を有していたミノア文明ですが、紀元前16世紀頃に起きたテラ島の噴火による宮殿の破壊を端緒にその力は次第に減退していき、「ギリシア」に侵入してきた「蛮族」(インド=ヨーロッパ語族)の伸長によって遂には紀元前14世紀末に滅亡します。

ミノア文明に代わって繁栄したのはミュケナイ文明です。「ギリシア」本土のミュケナイに移住したインド=ヨーロッパ語族の「蛮族」(アカイア人)は、紀元前16世紀頃にミノア文明と「小アジア」の文化を吸収・模倣してその力を急激に成長させ、紀元前14世紀末クレタ島を支配下に置きます。これによってミノア文明は滅亡したと考えられています。出土する黄金の仮面や種々の宝石、象牙製品、あるいは宮殿跡に残る浴室や下水道などの設備から、いかにミュケナイ文明が洗練され、強大な力を誇っていたかが分かります。また、この時代に古代ギリシア語が形成されたようです。ミノア文明の後継たるミュケナイ文明もまた「小アジア」との交易や交流を行っていました。しかし、同時に「小アジア」との間に諍いも生じたに違いありません。この「小アジア」との間に生じた諍いが、一説には「トロイの木馬」で有名なトロイア戦争だと言われています。このトロイア戦争の記憶は世代を超えて語り継がれ、古代ギリシアにおいて最も重要な詩人ホメロスによって、ギリシア人の「歴史」を語った叙事詩として『イーリアス』『オデュッセイア』収められます。しかし高度な文明であったミュケナイ文明もまた突如崩壊することになります。

(画像:ジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロ作『トロイアの木馬の行進』

ミュケナイ文明が崩壊した理由については、現在もなお、はっきりとしたことは分かっていません。ミュケナイ文明が崩壊するのは紀元前12世紀頃ですが、同じ頃、東地中海の各文明には崩壊の波が押し寄せました。この文明の崩壊の波を「前1200年のカタストロフ」と言います。このカタストロフにより、「ギリシア」ではミュケナイ文明が、「アジア」ではヒッタイト帝国とミタンニ王国が崩壊し、エジプト新王国も痛手を被って衰退の一途をたどることになります。「前1200年のカタストロフ」には様々な説が提唱されています。インド=ヨーロッパ語族のドーリス人の大移動によって文明が崩壊したとする説、「海の民」と呼ばれる海賊の略奪によって崩壊したとする説、あるいは気候変動や自然災害、それに伴う経済崩壊によって崩壊したとする説。いずれにせよ、「前1200年のカタストロフ」によって「ギリシア」は「暗黒時代」と呼ばれる時代に入ります。この時代以降、紀元前700年頃まで「ギリシア」は文字資料の極めて乏しい時代が続きます。

長らく続いた「暗黒時代」ですが、紀元前800年頃から次第に輝きを取り戻していきます。すなわち、この頃からギリシアの各地にポリスと呼ばれる都市国家が形成され始めました。元来「砦・城塞」といった意味を持つ「ポリス」という言葉は「小高い丘」や「高いところ」を意味する「アクロポリス」を語源としており、この「アクロポリス」にはしばしば神殿が置かれました。神殿に限らず、教会や寺院といった宗教施設は生活と密接に結びついています。それゆえ、「ギリシア」においてもアクロポリスを中心に都市=ポリスが形成されていったのでした。

(画像:コリントスのアクロポリス 「アクロコリントス」) 

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