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ヨーロッパ文学の〇〇主義って何?:古代ギリシアの文学: 古代ギリシア叙事詩:ホメロス『イーリアス』

啓蒙主義、古典主義、ロマン主義などなど…。文学で必ず出くわすこの〇〇主義をその思想史的・歴史的背景と共に俯瞰します。

ホメロスと古代ギリシア人のアイデンティティー

【叙事詩とホメロスについて】

古代ギリシア人たちはアクロポリスに神殿を置き、神々を崇拝していたのですが、キリスト教やイスラム教、ユダヤ教のように聖典があった訳でもなく、また文字記録を残さなかった暗黒時代が数百年ものあいだ続いたのにも拘わらず、彼らは彼ら自身の神話について共通の認識を持っていました。では、古代ギリシア人たちはどのようにして自らの神話を「知った」のでしょうか。

古代ギリシアの人々は彼らの神話を「叙事詩」という形で口承によって受け継ぎ、次の世代へと伝えていきました。「叙事詩」というジャンルはその名の通り、「詩」によって「出来事」を「叙べる(のべる)」ジャンルです。古代から中世にかけて、特に古代ギリシアでは、叙事詩のなかで語られることは「歴史」そのものとして捉えられていました。そして、この叙事詩によって古代ギリシアの文化に最も大きな影響を与えたのが「西洋文学の父」とも呼ばれる詩人ホメロスです。

ホメロスは紀元前8世紀頃に生きた盲目の吟遊詩人で、英雄アキレウスを主人公にトロイア戦争における彼の「呪わしき怒り」を主題とする叙事詩『イーリアス』と、英雄オデュッセウスを主人公にトロイア戦争終結後の彼の漂泊を描いた叙事詩『オデュッセイア』の作者と「されて」います。しかし、ホメロス本人に関してはその出生や死没などのはっきりとしたことは現在でも一切分かっておらず、それどころか彼が実在したかどうか、あるいは『イーリアス』『オデュッセイア』の両作品が本当に彼の作品だったかどうかという疑問までもが投げかけられています。ホメロスが実在したか否かいずれにせよ、彼の二つの叙事詩はギリシア人たちのアイデンティティー形成に大きな影響を与えました。では、どのような影響を与えたのでしょうか。ここでは紙面の都合上、二つの叙事詩のうち『イーリアス』のみを取り上げます。

(画像:ウィリアム・アドルフ・ブグロー『ホメーロスと案内人』


【『イーリアス』の物語について】

ホメロスの叙事詩が古代ギリシア人のアイデンティティーに与えた影響をその内容面から見ていきましょう。

『イーリアス』とは「イリオスの歌」という意味で、「イリオス」はトロイアの木馬で有名なトロイアの別名です。つまり、『イーリアス』とはトロイア戦争を歌った叙事詩なのです。トロイア戦争は10年ものあいだ続きました。『イーリアス』はその10年目にあたる年のわずか51日間のエピソードを15693詩行という長編で詳細に描いた作品です。物語の舞台はトロイア戦争ですし、『イーリアス』の主人公アキレウスはこの戦争の発端にも多少関わっていますので、まずはトロイア戦争がなぜ起きたのかを知っておく必要がありそうです。


戦争の発端となったのは三女神ヘラ・アテナ・アフロディーテの争いです。ある時、アキレウスの父・英雄ペーレウスとアキレスの母・海の女神テティスの結婚式が執り行われました。全ての神々がこの結婚式に呼ばれたなか、不和と争いの女神エリスだけは呼ばれませんでした。不和と争いの女神なのですから、結婚式に呼ばれないのはある意味当然のことかもしれません。しかし、それに怒った彼女は宴会の席に「最も美しい女神に」と書かれた黄金の林檎を投げ入れます。「我こそは最も美しい女神だ」と自負する三女神、すなわち大神ゼウスの妃ヘラ、戦いと知恵の女神アテナ、そして愛と美の女神アフロディーテはこの林檎を巡って争い、その決定はゼウスによってトロイアの王子パリスに委ねられました。三女神はパリスに言い寄ります。ヘラはパリスに「世界を支配する力」を、アテナは「いかなる戦いにおいても勝利する力」を約束しますが、彼は結局「最も美しい女を与える」と約束したアフロディーテを選びました。その「最も美しい女」とはすでにスパルタ王メネラオスの妃となっていたヘレネーのことで、パリスはアフロディーテの誘いに乗ってヘレネーをスパルタから連れ去ります。さて、妻を奪われたメネラオスは兄のミュケナイ王アガメムノン英雄オデュッセウスを頼ってパリスのいるトロイアへと赴き、ヘレネーを返すよう勧告します。しかしパリスは頑として譲らず、結果、メネラオスら率いるアカイア軍(ギリシア連合軍)とパリス率いるイリオス軍(トロイア軍)の間で戦争になったのでした。

(画像:ピーテル・パウル・ルーベンス『パリスの審判』


さて、『イーリアス』の内容に入っていきましょう。『イーリアス』の物語は次のような文言で始まります。

怒りを歌え、ムーサ(詩の女神)よ。ペーレウスの息子アキレウスの怒りを。」

ここで歌われているように、『イーリアス』の主題は主人公アキレウスの怒りです。では、なぜアキウレスは怒っているのでしょうか。

戦争が始まって10年目、アカイア軍は疫病によって苦しんでいました。疫病をもたらしたのは、光明神アポロンです。先の戦いでトロイアに勝利を収めたアカイア軍の総大将アガメムノンはアポロンの神官クリューセースの娘を捕虜にし、愛妾としていました。捕らえられた娘を返してもらおうと、クリューセースは貢物(身の代)を携えて、敵であるアカイア軍の陣を訪れます。しかし、アカイア軍はにべもなくその頼みを断り、あまつさえ彼を侮辱しました。恥辱にまみれたクリューセースはアポロンに祈ります。「アカイア軍に報いを」と。アポロンは自らに仕える神官の言葉を聞き、銀弓によって疫病の矢をアカイア軍に降らせたのでした。

(画像:『アガメムノーンに娘の返還を求めるクリューセース』ルーヴル美術館所蔵

アカイア軍はアポロンの怒りを鎮めるために、クリューセースの娘を身の代なしに返すことに決定しました。しかし、娘を愛妾にしていたアガメムノンは娘を失った代償をアカイア側の諸将に求め、それをきっかけにアガメムノンとアキレウスのあいだに口論が起きます。「私には戦う義務はない。しかし、あなたがた兄弟のために戦闘に参加している」と語るアキレウスに対し、アガメムノンは「我らのために戦う戦士は山ほどいる。そなたが義務で戦うというのなら、我らはそなたなしにでも戦うことができる」と言い返します。結局、アガメムノンはアキレウスの捕虜となっていた美女ブリーセーイスを自分のものにします。捕虜はその将の名誉と同等のものです。その捕虜を奪われてアキレウスは激怒したのでした。彼はこの日以降、戦闘にも集会にも姿を現さなくなります。

アキレウスを失ったアカイア軍は徐々にトロイア軍に押され、戦局は劣勢になりつつありました。なんとかアキレウスに復帰してもらおうと、アガメムノンはオデュッセウスや大アイアースなどの彼と親しい英雄たちを和解の使者に送りますが、彼は一向に耳を貸しません。いよいよトロイア軍がアカイア軍の陣地に攻め込むようになり、今まで彼の肩を持っていた親友パトロクロスも彼に復帰を懇願します。しかしパトロクロスの説得も空しく、彼は結局首を縦に振りませんでした。そこでパトロクロスは彼の鎧を借り受けます。アキレウスに扮して出陣しようとしたのです。アキレウスの鎧を着たパトロクロスが出陣すると、アキレウスがついに戦線に復帰したと思ったアカイア軍は一気にトロイア軍を押し返します。アキレウスはパトロクロスに深追いはしないよう注意していたのですが、わざとか否か、パトロクロスはトロイアの城壁近くまで敵を深追いし、そこでトロイア王プリアモスの息子ヘクトールに討ち取られてしまいます。

パトロクロス討ち死にの一報を聞き、アキレウスはヘクトールに復讐せんとして遂に出陣します。母 女神テティスの願いで炎と鍛冶の神ヘパイストスが新たに鎧を拵え、それを着た彼はトロイア側の名将たちを次々に打ち破ります。形勢不利と見たトロイア軍は城壁のなかへと逃げ込みますが、一人、門の前に立ってアキレウスを待ち受ける者がいました。パトロクロスの仇ヘクトールです。アキレウスはトロイア最強の将である英雄ヘクトールを一騎打ちにて見事に討ち取りますしかし、彼の怒りはそれだけでは収まりませんでした。彼はヘクトールの亡骸を戦車に括り付け引きずり回します。

ヘクトールの亡骸が恥かしめられ続けていることを悲しんだトロイアの老王プリアモスは、亡骸の身の代を携えてアキレウスの陣営を一人訪れます。トロイア戦争で死ぬ運命を知っていたアキレウスは、息子をすべて失って悲しむ老王の姿自分の父の姿を重ね、次第に彼の怒りは鎮まっていきました。彼は身の代から二着の外套と一着の織の良い肌着を残し、洗ってオリーブ油を塗したヘクトールの亡骸にそれを纏わせて、老王に返します。その後、ヘクトールを悼む葬儀の場面で『イーリアス』の物語は幕を下ろします。

(画像:『パトロクロスの遺体を守るメネラオス』紀元前3世紀ごろ、ヘレニズム時代のギリシアの大理石像の復元。フィレンツェ、ロッジア・ディ・ランツィ。

 

 


【『イーリアス』と古代ギリシアの倫理意識】

『イーリアス』の物語のなかには、枠物語(物語のなかの物語)として様々な神話が語られます。例えば、アキレウスの出陣を懇願する彼の養父的存在ポイ二クスが語る「メレアグロス物語」がその一つです(『イーリアス』第九歌)。少しこの「メレアグロス物語」をお話ししましょう。

メレアグロスは、捧げ物をされなかったために怒った狩猟の神アルテミスが人間に対する罰として放った大猪(カリュドーンの大猪)を倒した英雄です。しかし、大猪を倒した後、その手柄を争ってメレアグロスと彼の母方の叔父のあいだに争いが生じ、これをきっかけに叔父の一族であるクレテス人とメレアグロスが治めるカリュドーンに住むアイトロイ人の戦争が始まりました。武勇誉れ高いメレアグロスはクレテス人を圧倒していました。しかしある時、彼は戦争のさなかに彼の叔父兄弟を殺してしまいます。彼の母はアイトロイ人に嫁いでいたため、本来アイトロイ側だったのですが、自分の兄弟を実の息子が殺したことを知って彼を呪いました。母に呪われたことを怒った彼は、戦いに出陣しなくなります彼が出陣しなくなると形勢は一転、アイトロイ人は不利になり町の城壁も壊されてしまいます。町の長老たちは重立った祭司たちを彼のもとに遣わせ、膨大な褒賞を約束しますが、メレアグロスは頑として動きません。彼の父や姉妹、ついには彼を呪った当の母までも彼に懇願しますが、耳を貸すことはありませんでした。町に火が放たれると、それまで彼の味方をしていた彼の妻も町の惨状を語って彼を説得します。愛する妻のこの説得にメレアグロスも心を揺さぶられ、出陣するや否やクレテス人を打ち破りました。しかし、約束の褒賞は彼に与えられることはありませんでした。

さて、もうお気づきの方がいらっしゃるかもしれません。そう、この老ポイ二クスが語る「メレアグロス物語」はアキレウスの状況とかなり似通っているのです。「メレアグロス物語」は例話(パラディグマ)として機能しています。このほかにも、ヘクトールの亡骸をもらい受けに来た老王プリアモスを慰めるアキレウスの言葉にも、別の神話(ニオベ―物語)が枠物語として挿入されています(『イーリアス』第二十四歌)。古代ギリシア人たちは『イーリアス』を「歴史」として受け継いできました。それゆえ、『イーリアス』の各所で挿入されている枠物語としての神話は、それに対する英雄たちの反応も含め、古代ギリシア人の倫理意識を形成する役割を担っていったのです。

(画像:ピーテル・パウル・ルーベンス『メレアグロスとアタランテー』


【ホメロスの叙事詩とギリシア文字】

これまではホメロスの叙事詩の内容、すなわち作品内在的な古代ギリシア人のアイデンティティー形成への影響を見てきましたが、今度は作品外在的な影響を見ていきましょう。ホメロスの叙事詩はギリシア文字にも影響を与えています。

「暗黒時代」以前の古代ギリシア(ミノア文明)では線文字Bという種類の文字が用いられていました。これは表意文字的ないくつかの絵画的な記号、数字とその単位表記で構成される文字で、それゆえに交易の記録を残すためにしか使われませんでした。それに対して、紀元前8世紀頃、地中海東岸(現在のシリアのあたり)に居住していたフェニキア人のフェニキア文字をもとに作られたギリシア文字アルファベット(音素文字)です。それゆえ、古代ギリシア語を十全に文字として表記することができるようになり、線文字Bにはできなかった文字による文学的な表現も可能になりました。つまり、ギリシア文字の成立によって、それまで口承によって受け継がれてきたホメロスの叙事詩が、テクストという形でより広範に伝播されることになったのでした。

しかし、逆のことも考えられそうです。すなわち、ホメロスの叙事詩という口承文学が存在していたからこそ、文学的表現が可能な文字が必要とされたのだ、と。フェニキア文字はすでに紀元前2000年には成立しています。したがって、ミノア文明の時点ですでに古代ギリシアは、必要があればフェニキア文字をもとに線文字Bに代わる新たな文字を創造することができたはずです。しかし、ミノア文明では交易記録用の線文字Bしか用いられませんでした。ということは、ミノア文明には交易記録用以上の機能を持つ文字は必要なかったのです。ミノア文明にも詩のような文学的なものがあったかもしれません。しかし、それを記録する文字の必要がなかったのですから、その重要性は大きくはなく、その伝播も局所的なものであったのでしょう。それに対し、ホメロスの叙事詩は古代ギリシア人にとって「歴史」そのものでした。したがって、ギリシア文字はホメロスの叙事詩を書き留めるために(書き留める必要があったから)成立した、と推論するのもあながち的外れではなさそうです。もしそうならば、ホメロスの叙事詩はギリシア文字という面からも、古代ギリシア人のアイデンティティー形成に大きな影響を与えていると言えるでしょう。

(画像:フィリップ=ローラン・ロラン『ホメーロス』

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