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伊都キャンパスにある遺跡とその物語: 終わりに

現代建物の間を歩いている時に歴史の間も歩いています

終わりに

1984年、北九州の有田遺跡から炭化されたイネの種、所謂炭化米、が発見されました。一緒に出てきた遺物から縄文時代末期から弥生時代初期に栽培されたものとわかりました。日本考古学では農耕の始まりは稲栽培の始まりとしていて、諸説ありますが、この発見により北九州は日本最初の農耕地の一つと考えられます。日本には稲の元となっている草は存在していませんでした(イネの栽培は考古学の調査と野生稲の約350系統のDNA調査の結果、約一万年前長江中下流域今の湖南省で始まったと考えられる)ので、稲作が行われたことは大陸からの影響だと考えられます。しかし、当然ですが、稲は自分でやってはきません。その背後には人々の移動とつながります。(詳しくこちらへ)

稲の元は中国の長江中下流域にある草です。約1万年前に稲として栽培が始まりました。あの有名な8000年前と考えられる浙江省河姆渡遺跡にも水田遺跡が発見されています。約7000年前に今の山東省に稲として伝わってきました。科学の測定により、山東省両城鎮遺跡で発見された炭化米は北九州で発見された炭化米と近いです。つまり、お米は私の出身地である山東省から来ています。

しかし、当時は飛行機がないため、どうやって来たのでしょうか。

結論から言いますと、渡来人と一緒に来ました。約3000年前に大陸と朝鮮半島の人々は対馬海峡を渡り、北九州に到着しました。そして、稲作技術と一緒にこの土に定着していました。「縄文人と戦争があった」という説もありましたが、遺跡に残された人骨からみると、通婚と貿易交換は主流となっています。つまり、お米を受け入れていたように人も暖かく受け入れていました。

考古学をやっていて、遺物と遺跡には歴史書には書かれていない日常的な交流が残っていることがわかるようになりました。九大伊都キャンパス周辺で発見された三雲南小路遺跡で漢の貨幣や鏡が発見されています。また、伊都キャンパス後ろの山には鉄の生産遺跡も発見されています。そこで扱われていた鉄鉱石は朝鮮半島からのもので、技術は中国からのものです。そして、山東省には唐代の登州港遺跡があります。遣唐使は博多港から出発し、そこで中国に上陸していました。

このような、お米を含めて、歴史書に書かれていない交流が、実は長い歴史の中で主流となっています。そこで交流した物の多くはお米と同じように日常的な生活に染み込んでいます。このような交流は地味ですが、すごいと思います。

私もお米のような人間になれたらいいなぁと思っています。

(図10:日本最古の古墳・平原弥生古墳 2021年10月撮影・糸島)

天照大神の墓と言う人もいますが、ここで36枚の漢鏡が発見されました。

おすすめの本

考古学報告書や地図に興味がある方は、中央図書館の2階にある「全国遺跡報告書総覧」をチェックしてみてください。