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伊都キャンパスにある遺跡とその物語: 歴史時代へ:古墳・奈良・平安・鎌倉とその以降

現代建物の間を歩いている時に歴史の間も歩いています

古墳時代

古墳時代

伊都キャンパス内では古墳が数多く存在しています。前方後円墳だけでも六箇所が確認されています。このうちいくつかを簡単に紹介します。伊都キャンパスにおける、古墳時代の様子の理解に参考になれば幸いです。

古墳

(1)桑原金屎古墳

前方後円墳の中でも結構古い形を持っています。古墳時代前半(4世紀後半)に作られた古墳と考えられます。伊都キャンパス東ゲートの近くにあります。

この古墳は石室ではなく、まだ竪穴墓壙でした。木棺が設置され、木棺の中から鏡二枚が発見されています。いずれも4世紀頃に中国で作られたものです。(鏡と日本の政治体制について詳しく知りたい方はこちらへ『鏡と初期ヤマト政権 』辻田淳一郎

(図5:堺市ホームページ 古墳の謎3埋葬施設 2022年3月8日閲覧)

古墳の豆知識はこちら

(2)元岡石ヶ原古墳

前方後円墳です。横穴石室であり、発見された遺物から6世紀の古墳と考えられます。この古墳は山頂に位置するものであり、眺めが良いです。今はイーストゾーンを作るためさらに山を削っていますが、古墳と同じ高さに展望展示室が作られています。今(2021年)は展示室はコロナで一時閉じています。通常は毎週火曜日と木曜日で展示を開催しています。また、石ヶ原古墳の石室はイースト地区のロータリーに復元されています。露天であるため、いつでも気軽に見に行けます。

(図6:石ヶ原古墳 ガイド作成者撮影、2020年5月)

古墳時代の後期になると丘陵のあっちこっちにより小型の古墳が造られていました。立体駐車場の後ろに位置している元岡石ケ元古墳群と国指定重要文化財が出土した元岡古墳G群はその様子を表しています。

(3)元岡石ヶ元古墳群

全部で32基が発見されました。5世紀から6世紀まで100年間で作られた古墳と考えられます。8号墳では単鳳環頭大刀が発見されていました。12号墳で鉄をつくる道具も発見されています。周辺に鉄生産と関連している遺跡が多いことと合わせて考えると、この古墳群に鉄生産に関わる人たちが葬られているかもしれません。

(4)元岡古墳G群

この古墳群では国指定重要文化財が発見されています。

G−1号墳は方墳で、石室を作る石材は非常に大きく、一定的な権力を持っている人のお墓と想定できます。また、石室内では大刀が5本発見されており、特殊な環頭が用いられています。これらは大和朝廷からの下賜であると考えられます。

G−6号墳は同じく大きな石材で造られています。石室の中に銘文付きの大刀が発見されました。日本で最初に正確な暦を使って文書を書いたものです

これは「庚寅銘大刀」と名付けられて、2019年、国の指定重要文化財に指定されました。

(図7:庚寅大刀 「元岡・桑原遺跡群」2019 福岡市教育委員会 p14)

奈良・平安

奈良時代の遺物と遺跡がたくさん発見されていました。特に鉄器製作と関連している遺跡が多いです。

今で言うとドミトリ1が位置するところで旧石器時代の他、奈良時代の村の跡と製鉄炉·鍛冶炉などの施設が見つりました。

谷の奥や斜面に製鉄炉・鍛冶炉が発見され、ここに村が存在したことも明確にされています。この村では製鉄が行われていたことがわかりました。また、村中央に池が造られ、その中から「壬辰年韓鉄」と書かれた木簡が発見されました。

壬辰年は干支紀年法を使い、西暦で考えると692年である可能性が高いです。

韓鉄というのは朝鮮半島南部から輸入された原材料を示している可能性が高いです。

日本古代の鉄生産について貴重な成果です。

12次調査の場所は農学部後ろの山に位置しています。ここでは製鉄炉21基が確認され、製鉄時に出た不純物「鉄滓」78ドンが発見されました。 分析によると福岡の大原海岸の砂鉄を使ったことがわかりました。さらに、隣の15次調査区では木簡が発見されました。その木簡には鉄を作る前にお祓いをした時に使われた品物が記録されていました。大規模の製鉄炉とお祓いの木簡で考えると、ここでは「国家的プロジェクト」が行われた可能性が高いです。

18次調査の場所はドミトリー手前に位置します。ここでは7世紀中頃に作られた製鉄炉44基が発見されました。両側に穴が掘られ、不純物が廃棄されていました。奈良時代にかけて使われた可能性が高いです。元岡・桑原遺跡群の調査ではここは一番古くて、製鉄はここから始まった可能性があります。

20次調査の場所では総合グラウンドの近くに位置します。ここではオモリ(権)や緑釉陶器が見つりました。また、墨書土器や木簡も多数発見されました。多くの人がここに寄っていたことがわかり、当時の役所のようなものが存在していたかもしれません。

31次の調査は農学部の手前に位置します。そこでは窯跡が発見されました。そこで発見された瓦は鴻臚館(鴻臚館は平安時代、平安京、難波、筑紫の三ヵ所に設置された外交施設です。)で使われた瓦と一緒であり、ここで作った可能性が高いです。

鎌倉とその以降

鎌倉時代以降

鎌倉時代には志摩郡に巨大な皇室荘園(怡土庄)が設置されていました。

18次調査では当時の建物の跡が発見されました。寺社の一部の可能性があります。

他に46次調査では11世紀から15世紀の村跡が発見されました。今は九大南入り口の周辺にあります。

38次調査では今のイーストゾーン食堂の左側の丘陵に柑子岳城出城としての水崎城の堀と見られる大堀が発見されました。これは13世紀大友氏と大内氏の争いを示すものです。

 

(図8:水崎城 2021年ガイド作成者撮影・元岡)

豆知識

1、オモリ(権):秤(はかり)の付属品で、物の重さはかるための金属です。釣り合わせる機能から権力や権利など支配する意味に変化しました。

図9:秦の時代の権 「秦始皇陵西侧“丽山飤官”建築遗址清理簡報」『文博』1987(6)秦始皇帝陵考古隊.p33

2、緑釉陶器

緑釉陶器は、無色の基礎釉である鉛に、銅化合物を加えることで緑色に発色する釉をかけた古代の陶器です。

詳しくは名古屋市博物館のホームページで確認してください。

3、墨書土器

墨で文字や絵などが書き込まれた須恵器や土師器などの土器です。墨書土器は奈良・平安時代を中心として発達しました。

詳しくは山梨県公式ホームページにて確認してください。