真空崩壊(vacuum decay)とは、文字通りある真空が有限の時間で崩壊してしまうようなダイナミクスのことを指します。なんだかSFの世界のようにも聞こえますが、れっきとした物理現象です。キャッチーなネーミングも相まって、この現象は物理学の中でも比較的一般に普及した部類であるように思えます。例えば、近年のメディアにおいて真空崩壊が取り上げられた例としては以下のようなものがあります(2025年2月10日執筆時点)。
そんな真空崩壊ですが、実はわかっていないこともまだまだたくさんあります。現象論[注]の観点では「この宇宙は崩壊しうるのか」というのは重要な未解決問題ですし、そもそも崩壊率の厳密な定式化も完全には達成されていません。私は大学院にて「高次元真空の崩壊現象」を研究していますが、折に触れてこの現象の奥深さを感じます。それと同時に、最先端の研究をカバーした記事があまり存在していない事実に、少し物寂しさも覚えます。とりわけ近年では、重力波観測への期待も相まってますます盛り上がっているテーマにも関わらず、一般向けの発信が不足している現状は非常に勿体なく思っています。
そこでこのガイドでは、概念的なイメージに留まらない「真空崩壊の面白さ」を最大限お届けします。「数学的定式化」では真空崩壊の概念と経路積分に基づく定式化について解説しました。理論物理学者から見た真空崩壊の物理をできるだけみなさんにお伝えします。「真空崩壊の拡がり」では最先端の研究における真空崩壊の応用をご紹介します。SFでも科学雑誌でも聞いたことがないであろう、奇妙奇天烈なシナリオを5つ厳選しました。「不安定性の増強 / インスタントンの量子化」では私の研究テーマに関連した2つのトピックをご紹介します。素朴に考えられる真空崩壊のシナリオにおいて忘れられがちな「ファクター」、そして物理学者が頭を悩ませる、真空崩壊の抱える根本的な問題について取り上げます。
図1 真空崩壊によって生じた真真空の泡が拡大する様子。ChatGPTにて作成。
[注] 特に素粒子理論において、観測結果の説明を念頭に置き模型構築を行う研究分野を広く指す言葉です。