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崩壊する真空: インスタントンの量子化

不安定、だからこそ面白い

量子揺らぎは脇役ではない

「数学的定式化」にて、我々の計算するべきファクターは3つあることをご紹介しました。バウンス作用、ゼロモード規格化定数、汎関数行列式の3つです。このうち、ゼロモード規格化定数と汎関数行列式が「揺らぎ」を表しているものだと説明しました。このページではこれらのファクターに焦点を当てていきたいと思います。

出鼻を挫くようですが、元来ゼロモード規格化定数と汎関数行列式というのは「計算できたら計算する」という位置付けでした。「数学的定式化」にて説明したように、崩壊率における主要な寄与はバウンス作用からもたらされます。一方、規格化定数と汎関数行列式の寄与については、大体1桁ぐらいの数字だろうと考えられているので、それほど大きな影響があるとは考えられてこなかった訳です。

そんな脇役と捉えられがちなゼロモード規格化定数と汎関数行列式ですが、全くもってそんなことはありません。これは私見も入りますが、量子揺らぎもきちんと評価するべき対象です。主な理由は、この汎関数行列式が準古典近似の精度指標の1つであるという点です。察しの良い方は、「数学的定式化」にて経路積分の方法を紹介した際に、「近似」という単語に疑問を抱いたかもしれません。もし、その近似が正しくなかったらどうするのか、と。ここまで、この近似精度については深く言及しませんでしたが、実は前ページ「不安定性の増強」で見たような系の不安定性が大きいような状況では、WKB近似の精度は悪くなってしまう傾向にあります[注]。そうすると、触媒効果を加味したようなセットアップを議論する場合は、どのパラメータ領域まで計算が信頼できるのかを見極めるために、量子揺らぎも含めて計算する必要があります。特に弦理論のような非線形性が強く効いているような模型では、有効なパラメータ領域も殊更非自明で、バウンス作用だけでは評価することができません。求めた崩壊率の値がどれだけ信憑性のあるものなのか判断するには、量子揺らぎの値が重要となります。


[注] (私の知る限り)一般的な証明はありませんが、多くのモデルおいてこの傾向が確かめられています。

ゼータの威力

さて、ここからは具体的な量子揺らぎの計算、特に汎関数行列式の導出にフォーカスしていきます。数学アレルギーの方はご注意ください。「数学的定式化」では汎関数行列式を天下り的に導入しましたが、こいつは一体何者なのでしょうか。汎関数行列式とはインスタントン解の周りの場の揺らぎに相当するものです。「数学的定式化」で登場した経路積分には作用 \(S_{E}\) と呼ばれる量が登場していました。この作用をインスタントン解の周りで展開すると、場の揺らぎ\(\delta \phi\)に関して次のようなファクターを含んでいます。

\(S_{E} \ni \frac{1}{2}\int dt^{\prime}dt^{\prime \prime} \delta \phi(t^{\prime}) \left(-\frac{d^{2}}{dt^{\prime 2}} + V^{\prime \prime} \right) \delta \phi(t^{\prime \prime})\)

この式の全てを理解する必要はありません。そんなもんなんだなと思ってください。重要なのは、被積分関数に以下のような微分演算子が含まれている点です(表記を簡単にするため\({}^{\prime}\)は省略してあります)。

\(M = -\frac{d^{2}}{dt^{2}} + V^{\prime \prime}\)

さて、この微分演算子を用いて、ある微分方程式を考えてみましょう。微分方程式とはここでは以下のような形をしているような方程式のことです。

\(M \delta \phi_{n} = \lambda_{n} \delta \phi_{n}\)

微分方程式についての説明は割愛しますが、右辺に登場する固有値\(\lambda_{n}\)という量が重要です。このような微分方程式を踏まえ、一番最初の式の積分を実行すると次のようになります(大学で微積分を勉強した方はガウス積分を思い出してください)

\(\frac{1}{2}\int dt^{\prime}dt^{\prime \prime} \delta \phi(t^{\prime})\left(-\frac{d^{2}}{dt^{\prime 2}} + V^{\prime \prime} \right)\delta \phi(t^{\prime \prime}) = \sqrt{\frac{2\pi}{\prod_{n}\lambda_{n}}}\)

計算結果に登場する\(\prod_{n}\)とは「全ての\(n\)について\(\lambda_{n}\)を掛け合わせる」という意味の数学記号です。前置きが少々長くなりましたが、汎関数行列式とは、右辺の分母に出現した\(\lambda_{n}\)の無限積のことを指します。このページのタイトルにもなっている「インスタントンの量子化」とは、ここではこのように定義される汎関数行列式を求めることに他なりません。

\(\mathrm{det} M = \prod_{n}\lambda_{n}\)

汎関数行列式の正体が判明しましたが、実はこの表式はあまり良い表現ではありません。形式的に\(\lambda_{n}\)を無限に掛け合わせたようなものとして書き下しましたが、実は一般的な事情として、微分演算子\(M\)の固有値は\(n\)の値に応じてどんどん大きくなっていきます。そうすると、それを無限に掛け合わせたような量も当然発散してしまいます[注]。計算量が発散してしまうのは、物理としては嬉しくありません。

そこで編み出されたのがゼータ関数正則化と呼ばれる手法です。ゼータ関数正則化とは、一言で言うと「振る舞いの良い特殊関数を使って発散を除去しようぜ」という方法です。具体的には次のような関数を定義します。

\(\zeta_{M}(s) = \sum_{n} \lambda^{-s}_{n}\)

\(\lambda_{n}\)は上式に登場していた固有値です。なんだか不思議な関数ですが、数学マニアの方は見覚えがあるのではないでしょうか。一見リーマンゼータ関数にそっくりな形をしていますね(下式)。

\(\zeta(s) = \sum_{n} n^{-s}\)

この類似性から、ここで導入した\(\zeta_{M}(s)\)はスペクトルゼータ関数と呼ばれます。このスペクトルゼータ関数を使うと、汎関数行列式は次のように書き直すことができます。

\(\mathrm{det} M = \exp\left[-\zeta^{\prime}_{M}(0) \right]\)

右辺に登場する\(\zeta_{M}^{\prime}(0)\)はスペクトルゼータ関数の\(s=0\)における微分です。この等式は高校数学で確かめることができますので、ぜひ計算してみてください。スペクトルゼータ関数の微分に関する量は有限の値であり、元々汎関数行列式に含まれていた発散をうまく除去できています。詳細は少々混みいっていますので、興味のある方は末尾の参考文献をご参照ください[1]。


[注] この発散はしばしばUV(Ultraviolet)発散と呼ばれます。

参考文献

[1] 大栗 博司, 「発散積分についてのコメント」,  素粒子論研究, 70 巻 (1984) 3 号.
     https://doi.org/10.24532/soken.70.3_231

重力という魔物

ゼータ関数正則化という武器について解説しましたが、いついかなる時もインスタントンを量子化できるとは限りません。その代表例が重力の存在するケースです。本ガイドの締めくくりに真空崩壊の抱える致命的な問題についてご紹介したいと思います。

真空崩壊が初めに定式化されたのは場の量子論においてですが、より現実的な模型においてそのダイナミクスを検証するのであれば、「重力」の存在を考慮しなければなりません。もちろん、コールマンがそれを見逃すはずがなく、最初の記念碑的な論文が出版された3年後に重力が存在する時空中における真空崩壊の定式化を提案しています[1]。業界では「コールマン・ドルチエ」と呼ばれています。

コールマン・ドルチエの影響は凄まじく、真空崩壊の議論では必ず引用される論文の1つです。しかし、重力という魔物はそう簡単に手懐けられるものではありませんでした。コールマン・ドルチエの発表から5年後、ロシアの研究グループが「コールマンとドルチエの提唱したインスタントンにはネガティブモードが膨大に存在する可能性がある」と指摘したのです[2]。

ここでネガティブモードについて少し補足しておきます。上記「ゼータの威力」で紹介した微分方程式を思い出してください。ネガティブモードとは、インスタントン解回りの揺らぎ\(\delta \phi_{n}\)のうち、固有値が負であるようなものを指します。ネガティブモードが1つだけである場合、上記「ゼータの威力」で紹介した積分の計算を実行すると、計算結果に登場する平方根の中身は負の数字となります。\(\sqrt{-1} = i\)を思い出すと、ここから虚部が出てくるわけです(「数学的定式化」では、揺らぎを表す\(K\)から虚部が出てくると説明していました)。

一方、ネガティブモードが複数個存在するとなると話は変わってきます。揺らぎの寄与の計算から虚部が出てくるとは限らないので、崩壊をきちんと議論することができなくなってしまうのです。ネガティブモードが単一であるというのは真空崩壊における大前提であり、そこが揺らぐのは由々しき事態です。この問題はネガティブモード問題と呼ばれています。

今日に至っても、ネガティブモード問題は未解決のままです。着実に理解は進んでいるものの、各文献によってネガティブモード問題が出現する条件も異なっており、混迷を極めているというのが現状です。ネガティブモード問題の根本的な原因はなんなのか、どのようにすれば解決できるのか、重力という魔物を前にした物理学者の格闘は今なお続いています。

参考文献

[1] S. R. Coleman, F. De Luccia, "Gravitational Effects on and of Vacuum Decay," Phys.Rev.D 21 (1980) 3305.
     https://doi.org/10.1103/PhysRevD.21.3305

[2] G. V. Lavrelashvili, V. A. Rubakov, P. G. Tinyakov, "TUNNELING TRANSITIONS WITH GRAVITATION: BREAKDOWN OF THE QUASICLASSICAL APPROXIMATION," Phys.Lett.B 161 (1985) 280-284.
     https://doi.org/10.1016/0370-2693(85)90761-0