Skip to Main Content

崩壊する真空: 数学的定式化

不安定、だからこそ面白い

「真空」とは

真空崩壊の話を始める前に、まず「真空」という言葉について定義しなければいけません。一般的に、真空とは「空気の抜かれた空間」というイメージかと思います。実際、「真空ポンプ」という単語における「真空」は「大気圧よりも低い状態」といった意味合いです。しかし、(素粒子)物理学における「真空」はそれとは少し異なります。素粒子物理学における「真空」とは「空気だけでなく、ありとあらゆる粒子を除去した空間」のことを指します。ありとあらゆる粒子ですので、チリや電子、光子等、いかなる粒子も存在してはいけません。

とはいえ、真空は全く空の状態かというと、そんなことはありません。ありとあらゆる粒子を除いたとしても、何らかのエネルギーが残されてしまいます。この残されたエネルギー、すなわち真空の持つエネルギーのことをそのまま真空エネルギー(vacuum energy)と呼んでいます。

真空にはいかなる粒子も存在しないので、空間全体として最も低いエネルギー状態にあると見做すことができます。逆に、最も低いエネルギー状態のことを真空と呼んでいると考えても差し支えありません。

直感的な理解

最も低いエネルギー状態というのが最も簡潔な真空の定義ですが、実は真空にもある種の格付けがあります。それが偽真空・真真空という概念です。これは図2を見ると理解しやすくなります。図2中のペットボトルの底を歪めたような形をしている曲線はポテンシャルを描画しています。ポテンシャルというのは端的には力を発生させる能力のことですが、ここではエネルギーのことだと思ってもらえれば大丈夫です。このポテンシャルには「底」が2箇所存在しています。このうち、エネルギーの高い方を偽真空、低い方を真真空と定義します。いずれの真空も局所的には最も低いエネルギー状態となっています。

図2 偽真空と真真空

2つの異なる真空の間にはポテンシャルの山、つまり障壁が存在するので、古典的には偽真空から真真空に移ることはできません。つまり、熱的な揺らぎであったり、外部からのエネルギーの注入(考えづらいですが宇宙全体を揺らすなど)が無い限りは安定です。しかし、量子論を考えると話が変わります。古典的な世界を生きる我々は、文字通りの意味での壁が存在すると、そこでぶつかってしまうのでその先に行くことはできませんが、量子論の世界では極小さな確率ながら、壁をすり抜けられることがあります。図2の青丸はこのすり抜けを簡単に表したものです。これはトンネル効果(tunnel effect, quantum tunneling)と呼ばれており、本ガイドの主題である真空崩壊においても重要な概念です。

トンネル効果を加味すると、古典的には安定な真空であっても有限の確率でトンネリングを起こし、真真空へ遷移することが可能になります。この量子論的な不安定性こそ、真空崩壊と呼ばれる代物です。真空崩壊を起こすと、時空に真真空の「泡」が生じます(図3)。

図3 偽真空中に生じた真真空の「泡」

これはちょうど炭酸水の中で気泡が発生する現象に類似しています。ただし、炭酸水中で発生した泡の大きさは一度発生した後は泡内部からの圧力と外部からの圧力が釣り合う位置で落ち着くのに対して、真空崩壊において生じた真空の泡は、もしその泡のサイズが十分に大きければ光速に近いスピードで際限なく広がり、いずれ偽真空の状態にある時空を埋め尽くしてしまいます。なんだか途方もない話に聞こえますが、考えてみればなんら不自然なことではありません。真空崩壊によって生じた泡にも張力があるので、より小さく縮こまろうとしますが、泡内部と外部の異なる真空のエネルギー差によって生み出された圧力がそれに逆らって泡を押し広げようとします。この圧力が張力を圧倒する時、つまり泡のサイズが十分大きい時に爆発的な膨張が起こるというわけです。なんとなく真空崩壊の概念が掴めたでしょうか。

経路積分の方法

さて、ここまでは直感的な理解をご紹介しましたが、もちろんこれは物理ですので、数学的に議論することが可能です。ここでは少し踏み込んで、真空崩壊の数学的な定式化についてご紹介したいと思います。数学好きな方もアレルギーをお持ちの方もぜひご一読ください。

真空崩壊の物理を数学的に議論する上で、特に重要な物理量は崩壊率です。崩壊率とは単位時間、単位体積あたりの真空崩壊が発生する割合のことを指します。

では具体的にどのように崩壊率を計算するのか。ここで登場するのが経路積分です。経路積分とは大雑把にはある地点Aからある地点Bへ移動する際に、とりうる経路について重み(その経路の取りやすさの指標)を全て足しあげたものを指します(図4)。ここで経路についての足しあげを行なうのは、量子の世界では全てが確率的に決まっていることに由来しています。量子論的にはどんな経路も(物理的に禁止されなければ)有限の確率で通りうるので、それらもきちんと勘定してあげる必要があるわけです。

図4 地点A(偽真空)から地点B(真真空)へ至る色々な経路。AからBにまっすぐ抜ける\(\beta\)のような経路もあれば、少し上に迂回する経路\(\alpha\)、下に大きく潜ってBに到達する経路\(\gamma\)もある。

これを数式で表現すると下式のようになります。

\(\braket{B|e^{iHt/\hbar}|A}=\int\mathcal{D}q\ e^{iS/\hbar} \)

右辺が先ほど説明した経路積分、左辺はAという状態(\(\ket{A}\))からBという状態(\(\bra{B}\))に至る遷移振幅と呼ばれる量です。右辺の指数関数の肩に乗っている\(S\)は「作用」と呼ばれるもので、どのような理論を考えているのかを決める量です。便宜上、ここで虚時間と呼ばれるものを導入しておきます:\(t_{E} = it\)。すると、上の式は次のような式に変化します。

\(\braket{B|e^{-Ht_{E}/\hbar}|A}=\int\mathcal{D}q\ e^{-S_{E}/\hbar}\)

このような変形を施すと指数関数の肩から虚数単位が消えるため、後述する近似をうまく適用できるようになります。この時、右辺の指数関数の肩に乗っている\(S_{E}\)はユークリッド作用と呼ばれるもので、1つ前の式では\(S\)と書かれていたものに相当します。

この式のどこに崩壊率が隠れているのでしょうか。注目すべきは左辺の指数関数の肩、ハミルトニアン\(H\)です。このハミルトニアンは素朴にはエネルギーみたいなものだと考えていただいて構いません。このエネルギーは安定な真空を考えている場合には実数になります。

\(E=E^{\prime}\qquad E^{\prime}:\ \text{実数}\)

しかし、今のように崩壊が起こりうる場合、つまり不安定な場合は、このエネルギーは一般的には複素数になることが知られています。

\(E=E^{\prime}+\frac{i}{2}\Gamma\)

出ました、この\(\Gamma\)こそ我々の計算したかった崩壊率です。この\(\Gamma\)(複素エネルギーの虚部)を何とか右辺の経路積分から読み取りたいわけですが、どうすれば良いのでしょうか。左辺の遷移振幅の形を見ると、エネルギー(ハミルトニアン)が指数関数の肩に乗っているので、なんとなく右辺の計算結果も\(e^{hogehoge}\)のような形になる気がします(しませんか?)。この予想を心に留めておきましょう。

実はこの経路積分を厳密に実行するのは非常に困難です。考えてみれば当たり前で、ありとあらゆる経路の寄与を全て余すことなく足しあげるのはあまりに非現実的です。しかし、我々は良いテクノロジーを持っています。それがWentzel-Kramers-Brillouin近似、通称WKB近似です。先ほどの経路積分の式をよく見てみると、指数関数の肩に\(\hbar\)という記号がいます。これはディラック定数と呼ばれる、量子論特有の定数です。WKB近似とはこの\(\hbar\)がめちゃくちゃ小さいと考える近似です[注1]。このような極限の下では、指数関数の肩は非常に大きな数になるので、指数関数全体としては非常に小さくなります。この極端な状況において、もし他のところよりも指数関数が大きくなっているような場所があれば、経路積分の計算もそこからの寄与を考えるだけで十分良く近似することができます。指数関数全体が大きくなっているような場所とは、その肩の\(S_{E}/\hbar\)が幾分か小さくなっているような箇所のことであり、作用の極値に他なりません。まとめると、WKB近似とは「経路積分を作用の極値周りの寄与で近似する」ような操作のことです。

少し物理を齧ったことのある方は「作用の極値」と聞いて、運動方程式が思い浮かぶかもしれません。詳細は省略しますが、今考えているような作用\(S_{E}\)の運動方程式を解くと、次のグラフのような形をした解が導かれます。

図5 運動方程式の解の概形

この解は「インスタントン解」と呼ばれており、複素エネルギーを求めるキーマンです。また、この解はAとBを行って帰ってくるような関数形をしています。その形から、別名「バウンス解」とも呼ばれています。上のグラフはAとBの間を1往復しかしていませんが、2回、3回と複数回往復するような古典解も考えられます。このようなマルチバウンス解の存在も考慮に入れると、WKB近似の下でのユークリッド経路積分の計算結果は以下のようになります。

\(\int\mathcal{D}q\ e^{-S_{E}/\hbar} \approx Z_{0}\sum_{n} \frac{(Ke^{-S_{E}[\bar{q}]/\hbar}\beta)^{n}}{n!} = Z_{0}\exp\left[Ke^{-S_{E}[\bar{q}]/\hbar}\beta \right]\)

右辺の形を見ると、期待通りに指数関数の形が出てきていることがわかります。「\(\exp[x]\)」というのは「\(e^{x}\)」の別の書き方です。指数関数の肩同士を比較すると、求めたい複素エネルギーは次のような表式であることがわかります。

\(E=\frac{\hbar\omega}{2} - Ke^{-B/\hbar}\)

量子力学を勉強したことのある方は、1項目が調和振動子ポテンシャル中での基底エネルギーと同じ表式をしていることに気がつくかと思います。その隣の2項目こそ、インスタントン解(バウンス解)を考えたことにより出現した新たな寄与です。エネルギーの虚部もこの部分から現れます。

正確には虚部を含んでいるのは\(K\)の部分です。ここは少し込み入った議論が必要になりますので詳細は省略しますが、直感的にはインスタントン解周りの「揺らぎ」を表している部分になります。\(K\)の虚部をきちんと計算すると、求めたかった崩壊率というのは次のように求められます。

\(\Gamma = -2\mathrm{Im}E = 2\mathrm{Im}K e^{-B/\hbar} = \sqrt{\frac{N_{0}}{2\pi \hbar}}\left[\frac{\mathrm{det}^{\prime}\ \mathbf{M}}{\mathrm{det}\ \mathbf{M}_{0}} \right]^{-1/2}e^{-B/\hbar}\)

何だか仰々しい式になってしまいましたね。何が何やら分からないという方がほとんどだと思いますが、この公式において計算するべきファクターは大きく3つに分けることができます。

   ① バウンス作用: \(B\)

   ② ゼロモード規格化定数: \(N_{0}\)

   ③ 汎関数行列式: \(\mathrm{det}\ \mathbf{M}\)

この内、揺らぎの寄与に相当する②と③の要素、特に汎関数行列式に関しては、かなり計算がテクニカルという事情もあり、厳密に求めるのは困難です。しかし、よくよく公式を観察すると、崩壊率の大体の大きさ[注2]を決めているのは指数関数の部分、つまりバウンス作用であることがわかります。それゆえ、実際の研究においても具体的な計算はバウンス作用のみでゼロモード規格化定数や汎関数行列式については近似で済ませる、という場面が圧倒的に多いです。もちろん、厳密に計算できるに越したことはありませんので、「いかに揺らぎの寄与を計算するか」というのも真空崩壊の研究における重要なテーマの1つです。これについては、「インスタントンの量子化」にて詳しく取り上げたいと思います。


[注1] 量子論特有の定数をゼロに近づけるような極限ですので、よく「準古典近似」とも呼ばれます。

[注2] 物理ではよくオーダーと表現されます。何桁の数字か、という意味です。