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崩壊する真空: 不安定性の増強

不安定、だからこそ面白い

真空崩壊は理想化されすぎている?

「真空崩壊の拡がり」ではたくさんの真空崩壊のシナリオについてご紹介しましたが、果たしてこれにて現実の物理を理解できたと言えるのでしょうか。少し物理の一般的な話をさせてください。物理というのは「物の理」という名前の表す通り、自然界のルールを明らかにするのが究極的な目標です。しかし、自然界というのは非常に複雑で、そのままの姿を数式に落とし込むことは到底できません。そこで物理においては、「近似」という概念が重要になってきます。つまり、余計な構成要素を削ぎ落とし、単純化されたおもちゃ模型(トイモデル)で現象の本質を理解しよう、という訳です。ゆえに、物理は近似の学問とも言えます。

真空崩壊の物理を理解する上でも、多くのモデルでは、非常に簡単化された模型をまずは解析します。具体的には、何も不純物の存在しない、まっさらな状態の真空が崩壊する状況を考えます。コールマンによる真空崩壊の数学的定式化や、ビレンキンのトンネリング仮説、ウィッテンの無の泡のオリジナルの論文はまさにこのような状況です。

一方で、真空に存在する不純物がダイナミクスを劇的に変えることもあります。グレゴリーらのブラックホール触媒はまさにその一例で、重力理論的なオブジェクトであるブラックホールが真空崩壊を大きく促進します。真空から別の真空へ遷移するという基本的なダイナミクスは変わらないものの、本来十分小さいと考えられる崩壊率が劇的に大きくなるのであれば、物理的な予言にも大きく影響を及ぼす可能性があります。

考えてみると、空間に不純物が存在する状況というのはかなり普遍的です。ブラックホール触媒で考えていたのは、ブラックホールという重力が支配的であるような巨視的なスケールの物理でしたが、我々の身近なところでも相転移が誘発される現象というのはありふれています。ブラックホール触媒の解説でも触れたように、大気中での雨粒の凝縮や砂粒周りでの炭酸水の発泡の促進はメソスケールにおける代表例です。まっさらな真空というのは、少し単純化されすぎているのかもしれません。

もっと起こそう真空崩壊

実は量子論が支配的であるようなミクロなスケールにおいても、このような不純物による触媒効果は普遍的に起こりうると期待されています。代表的な例がモノポールです[1][2]。モノポールとは直感的には磁石のS極、N極単体で存在しているようなオブジェクトのことです。日本語では磁気単極子と呼ばれます。素粒子物理学には、力の統一を目指すフレームワークとして大統一理論と呼ばれるものがあるのですが、実はこの大統一理論では対称性の破れに伴ってモノポールが生じることが知られています。そうすると、この大統一理論において構築された準安定真空の寿命もモノポールの影響を受けるんじゃないの?と考えたくなります。スタインハートは最も簡単な大統一理論の例において具体的にモノポールが存在するような準安定状態を構築し、答えが「イエス」であることを示しました。実際に、モノポールが存在する真空の寿命は短くなることが確かめられたのです。

スタインハートが題材にしたのはモノポールでしたが、量子論には様々な不純物の候補があります。前述した対称性の破れにおいても、モノポールだけでなく、宇宙紐(Cosmic string)渦糸(Vortex)ドメインウォール(Domain wall)などなど様々な物体が生じることが知られており、スタインハート以降、これらもモノポールと同様に真空崩壊を誘起することが示されました。今日、このように何かしらの不純物や外的要因によって崩壊率が増幅されたような真空崩壊は、Seeded decayInduced decayCatalyzed decayと呼ばれています。

真空崩壊の促進は統一理論の真空構造の理解においても重要な役割を果たします。ここでは統一理論の候補として超弦理論を取り上げることにします。現在、超弦理論の分野では、超弦理論を含む量子重力理論と矛盾しない低エネルギー有効理論の満たすべき条件を探索する試みに注目が集まっています。これはスワンプランド問題と呼ばれています。スワンプランド問題では有効理論を絞り込むための「予想」が沢山提唱されています。それらによると、超対称性の破れたドジッター真空、つまり我々の生きる宇宙に似た性質を持つ真空というのは十分に早く崩壊しなければならない、と考えられています。真空崩壊の起こる確率は十分に抑制されているため、この予想に照らし合わせると、ほとんどの真空は量子重力理論と矛盾してしまうのではないかと思われます。しかし、ここに先述したような真空崩壊の促進があるとどうでしょうか。もし、モノポールのような物体が真空の不安定性を増強しうるのであれば、スワンプランド予想の制限を満足して模型を構築することが可能になります。真空崩壊の促進は量子重力と矛盾のない模型を構築するのに欠かせないファクターであるかもしれません。

参考文献

[1] P. J. Steinhardt, "Monopole and vortex dissociation and decay of the false vacuum," Nucl. Phys. B 190 (1981) 583-616.
     https://doi.org/10.1016/0550-3213(81)90449-1

[2] P. J. Steinhardt, "Monopole dissociation in the early Universe," Phys. Rev. D 24 (1981) 842.
     https://doi.org/10.1103/PhysRevD.24.842