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アラビア語への挑戦: 科学とアラビア語

中世のアラビア科学

 科学史は歴史区分と同様に「古代」、「中世」及び「近代」に分離されると考えられます(紀元前や紀元後の分離もあるようですが)。古代科学といえば、ギリシア科学のことが想像されるでしょう。ギリシアでは、早くから哲学や数学が発展したといえます。また、中世科学といえば、中国やインドが浮かぶでしょうが、中世ラテン科学に直接結ぶつくのがアラビア科学です。以下では、イスラム科学者の活躍を中心にアラビア科学の内容及びその意義について考えてみたいと思います。 

【「アラビア」?科学】

 アラビア科学について語る前に、なぜ「アラビア」なのかを説明する必要があります。それは本ガイドのテーマとも関連するものです。「アラビア」と呼ばれる理由は、当時行われた科学は「アラビア語」であったからです。アラビア語はアラビア半島で生まれ、7世紀後半以降のアラビア半島周辺の領土の征服によってイスラム教が広がるにつれ、アラビア語も北アフリカ、北西インドまで広がり、それらの地域においてアラビア語は土着言語となっていきました。それで、当時それらの地域から出現した学者たちもアラビア語を使っていたことから「アラビア科学」と呼ばれています。

 

【アラビア科学の時代区分】

 アラビア科学は「成長期」、「隆盛期」及び「衰退期」の三つに分けられます。「成長期」は8世紀後半(750年~)から始まり9世紀まで、「隆盛期」は10世紀初頭から11世紀前半まで、「衰退期」は12世紀後半から13世紀後半まで続きます。ここでは、主に「成長期」と「隆盛期」のについて述べます。

 【アラビア科学の始まり】

 預言者ムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ)が632年に亡くなられてから、カリフ(後継者)たち4人(アブ・バクル、ウマル、ウスマン、アリ)がイスラーム共同体を指導しました。その後にカリフとしてウマイヤ朝(661-750)やアッバース朝(750-1517)が舞台に立ちます。このアッバース朝においてアラビア科学が始まり発展し、衰退しました。アッバース朝初期時代においてインドやギリシアの天文学、幾何学、医学などに関する書物がアラビア語へと翻訳されていきます。例えば、インドの天文学・数学に関連する『シッダーンタ』がそれです。また、ギリシアについては、アリストテレス、ユークリッド、プトレマイオス、アルキメデス、ヒプシクレスなどの書物が翻訳されていきます。この時代には翻訳だけでなく、研究活動も始まっています。そのために図書館などの研究を行うための施設が建築されました。

預言者ムハンマドに尊敬を表す言葉

 

 【錬金術・化学】

 この分野で代表的なのはラテン名としてゲーベル(Gebel)という名を持つジャービル・イブン・ハイヤーン(721-815)です。「錬金術の父」と呼ばれるほど科学に大いなる成果を残し、中世ヨーロッパの錬金術に影響を与えました。彼は化学、物理学、薬学、哲学などに関する多くの文献を執筆しました。彼は化学工業の基礎をなす塩酸、硝酸、硫酸の精製と結晶化法を発明したことで有名です。

 

 【数学】

 数学及び天文学の世界の偉大な科学者の一人はフワーリズミー(780-845?)です。数学や天文学だけでなく、物理学や暦学においても研究を行いました。これは数学の分野で彼が書いた『約分と消約の計算の書』が後の「Algebra」(代数学)の起源となりました。また、『インドの数の計算法』も書き、計算手順を意味する「アルゴリズム(Algorithm)」について本著書で書かれており、著書は当時イスラム帝国支配下にあったスペインを通してヨーロッパに広がり、ヨーロッパの大学で教科書として用いられていました。

 

 【医学】

 アヴィセナという名高い医学の世界で有名なイブン・シーナー(980ー1037)。医学だけでなく、論理学、神学、哲学、心理学や教育学などにおいても活躍した科学者です。彼の一番有名な著書は『医学典範』です。本著書は13世紀から17世紀までヨーロッパで、20世紀初頭にはインドにおいて教科書として使用されていました。

イブン・シーナー『医学典範』のページから。

(出典:World Digital Library https://www.wdl.org/en/item/15436/)

 

【地理・歴史】

 イスラム教徒は毎日礼拝しますが、その際に礼拝方向となるメッカの方向を正しく把握し、メッカ巡礼する際はそこに行く道を知る必要があります。これは必然的に地理学的な知見が建築されるきっかけとなりました。

 9世紀初頭から地球の大きさを測る事業が始まり、地図の作製が行われていました。9世紀においてインド洋沿岸地方や中国のことが旅行記において書かれていました。地理に関する著書が9世紀中盤から10世紀の初頭にかけて書かれていきました。11世紀に入り、ロシア地方まで旅行し、記録を残した者もいます。様々な旅行家がいましたが、その中でも14世紀に活躍したイブン・バットゥータ(1304ー1368)がとても有名です。彼は行った旅行を『旅行記』の著書に書いています。

 イブン・バットゥータの旅行旅行図 (出典:樺山紘一『クロニック世界全史』講談社、1994、337ページ)

 また、イスラム科学者で歴史を学問していた者はたくさんいます。歴史家・神学者であるムハッマド・アッ・タバリー(838ー923)は『使徒と諸王の知識の書』を執筆し、その中で天地創造から915年までの歴史を述べています。また、10世紀にスペインのアラビア歴史家であるアブ・バクル・アッ・ラージーは彼の歴史書において西ゴートやイスラムのスペイン征服について貴重な著書を書いています。さらに、スペインの歴史家であるイブ・ヌル・ファラディー(962ー1013)は『スペインの科学者の歴史』を書いていますが、それはスペインで活躍したイスラム教徒の伝記集です。

 

【アラビア科学の西欧への伝達】

 先行研究によると、アラビア科学が西欧に渡るルートは、①十字軍によるもの、②シチリア、③スペイン経由です。

 ①十字軍によるもの

 周知のとおり、7世紀前半にエルサレムがイスラム教徒の手元に入ることになります。しかし、11世紀末にエルサレムを取り戻すために軍事行動に出た十字軍によってキリスト教徒の手に戻ります。それに伴い、そこに足を運んだ西欧人はイスラム教徒の文明に接して驚き、それを故国に持ち帰り、伝達したと言われています。そのような人物としてペトロス・ペレグリヌス(Petrus Peregrinus)やバースのアデラード(Adelard of Bath)がいました。

 ②シチリア

 9世紀にイタリアのシチリア島はイスラム教徒の支配下に置かれます。その頃のシチリア島にはローマやギリシャの要素があり、その中にアラブ要素が入り、多種多様な学者を生みました。この島はその結果として、アラビア科学の翻訳の役割を為しました。そのような学者として当時はコンスタンティヌス・アフリカヌス(Constantinus Africanus)、マイケル・スコット(Michael Scot)などがいます。

 

 ③スペイン

 8世紀初頭にウマイヤ朝によってスペイン南部のアンダルシアがイスラム教徒の支配に置かれました。スペインはアラビア科学が西欧に渡るうえで重要な役割を話しました。スペインで他のところと同様にアラビア科学の翻訳活動が行われ、スペイン人だけでなく、カタロニア人や他の外国人も参加しました。それらの中にチェスターのロバート(Robert of Chester)、クレモナのジェラルド(Gerard of Cremona)などがいます。

 

【アラビア科学の意義】

 アラビア科学は現代の科学に大きな影響を与えたといっても過言ではありません。しかし、その科学が全世界において近年まであまり注目されず、無視されてきました。アラビア科学に関するまとまった成書といえば、1938年に書かれた『アラビア科学』(アドル・スミス)の一冊だけでした。そこからアラビア科学が研究され始まるのですが、それでも一部の人々において、「アラビア科学は独創性を持たず、ただギリシア科学を西欧世界へ伝達しただけ」のような認識がありました。しかし、最近の研究においてそういった偏見や間違った認識が次第に改められ、アラビア科学は自身においてギリシア科学を温存していただけでなく、独自な発展を遂げ、独創性を発揮し、近代科学の基礎を作ることに対して大きな役割を果たしたことが明らかになってきています。アラビア科学や学問が西洋に伝達され、現代の文化が形成されてきました。アラビアがその初めにおいてギリシアを学んだように、西洋もアラビアを学んだのです。アラビア科学・学問は「西洋の近代の学問を養った親のようなもの」です。

おすすめ文献

 アラビア科学を理解するのに役立つ文献をいくつか紹介します。