・はじめに
・「映画」とは
・写真技術
-写真の歴史
-カメラ・オブスクラを作ってみよう
・動画技術
-動画の歴史
-フェナキスティスコープを作ってみよう
・投影技術
-投影の歴史
-幻灯機を作ってみよう
・写真×動画×投影
・映画の発明
・おわりに
19世紀中頃になると、投影の技術と写真の技術や動画の技術との組み合わせがされ始めます。
1850年にランゲンハイム兄弟が写真スライドの初の投影を行いました。
プラキシノスコープの開発者であるレイノーもまた映写型プラキシノスコープを発明し、さらに大勢の人物によって動画を見ることができるようになりました。
この完成試写は1888年に行われています。
さらにレイノーは10枚前後の絵によるわずかな動作しか表現できなかった映写型プラキシノスコープを改良し、帯状に並べられた無数の絵からなる数分の動画を投影することができる「テアトル・オプティック(視覚劇場)」を開発しました。「世界初のアニメーション」の誕生です。
このレイノーによるテアトル・オプティックを用いた興行は、1892年秋にパリのモンマルトルにあった蝋人形館のグレヴァン博物館で、「パントミーム・リュミヌーズ」の名で始められました。
図1:テアトル・オプティックの様子
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Theatreoptique.jpg
テアトル・オプティックはフィルムに定着された像を投影するものではなく、投影方式も映写型プラクシノスコープの応用技術であるため、「世界初の映画」ではありませんでした。
ですがレイノーも写真の導入を考えており、映画発明の直前である1895年10月にフォトセノグラフという写真機を制作し、塗り直したり彩色したりしたフィルムをテアトル・オプティックに活用しました。
このように映画とは独自に誕生し、発展したテアトル・オプティックの興行は1900年まで続けられました。
なお、↓がテアトル・オプティックの原理を解説した動画です。
(https://www.youtube.com/watch?v=e4zQ49zgclM)
動く映像を作ろうとしたのはレイノーだけではありません。
19世紀後半には動く映像を作るための装置が数多くの人物によって発明されました。
発明王トーマス・エジソンもそんな発明家の一人です。
実際の開発は助手のイギリス人ウィリアム・ケネディ・ローリー・ディクソンによって主導されました。
当時発明された動く映像のための装置の多くは、被写体の像をフィルムに写し撮る撮影機の役割と、フィルムに定着された像を投影する映写機の役割とを兼ねたものでした。
しかしエジソンらの装置は、撮影機のキネトグラフと、映写機のキネトスコープというように、別々の装置として開発され、それぞれ1891年に特許が取得されました。
開発されたキネトグラフはセルロイドベースのロールフィルムに連続写真を撮影する装置であり、電気で駆動するために大変重量があって持ち運びができませんでした。
そこで1892年12月にニュージャージー州ウェスト・オレンジにある実験場の敷地に、キネトグラフを設置した部屋型の撮影所が建設されました。
世界最初の映画スタジオの誕生です。
この建物は当時の性能の悪いフィルムでもコントラストがはっきりつくように、全面が黒いタール紙で覆われていました。
そのため「ブラック・マリア」と呼ばれています。
さらに撮影のための十分な光量を得るために、撮影所全体が太陽を追って回転するという仕掛けも施されていました。
このブラック・マリアには著名な踊り子や芸人が招かれ、ダンスや曲芸、あるいはボクシングの試合の再現が撮影されていました。
映写機であるキネトスコープは、大きな箱の中に装填されたフィルムそのものを、箱に開けられた穴から拡大鏡で見る装置であり、こちらも電動のため大変な重量がありました。
さらにスクリーンに投影するものではないため、その性質上、一人でしか楽しむことができないという欠点もありました。
1894年4月14日、このキネトスコープ10台がニューヨークのブロードウェイ1155番地の店先に設置されることとなります。
こうした複数のキネトスコープを設置する興行形態はキネトスコープ・パーラーと呼ばれ、各地に広がり大変な人気となりましたが、一人しか見られないという欠点のためにキネトスコープの人気は2年程度しか続きませんでした。
↓の動画ではキネトスコープの様子を見ることができます。
(https://www.youtube.com/watch?v=sfI0NVC0hLU)