前のページでは、マス・コミュニケーション研究が生み出した概念の、現代のインターネット時代における応用例を示しました。
ここでは最後に、マス・コミュニケーション研究と現代のメディア環境を通して見えてくる、メディアとそれを利用する人間のあり方について考えるための道標を考察してみたいと思います。
マス・コミュニケーション研究は、メディアの影響力について調査すると同時に、メディアに対する人間の関わり方についても研究を重ねてきました。細分化、複雑化したメディア環境の只中にある現在、マスメディアだけでなくインターネットや広くメディアについての学問であるメディア研究において、先述した「オピニオン・リーダー」や「沈黙の螺旋仮説」の評価が見直され、現代のメディア環境に合致するよう修正、応用する動きが出てきています。
これらの概念に共通するのは、メディアの影響と同時に、人々がどのように振る舞った結果、他者に影響を及ぼすかという観点から論じられていることです。ただし人間とメディア、どちらが社会により影響を及ぼしているかという問いは、現在でも明らかではありませんし、意味のない問いとさえ言えます。マスメディアだけでなく、我々一人一人がメディアを持つことで、容易に情報を受容・加工・発信することが可能となった現代において、何らかの事件における「テレビが悪い」「ネットが悪い」という批判は、自らは関係がないという安全圏を維持するための振る舞いともいえます。このような批判は、「他の人はメディアの影響を受けているが、自分は違う」という認識によって支えられています(これを「第三者効果」と呼びます)。
「オピニオン・リーダー」のページでも述べたように、重要な点は「メディアからの情報の流れと影響の流れを区別する」ことです。我々にとって情報発信が容易になったということは、容易に自らの主観や価値観でゆがめた情報を不特定多数の人間に伝えることができることを意味します。そこには意識・無意識の区別はありません。人間は全ての情報を手に入れることも、処理することもできません。だから自ら得る情報を取捨選択し、見たくない情報は避けがちです。数10万、数100万のフォロワーを持つ著名人でさえ、それは変わりません。かといって「影響力のあるあの人が悪い」「批判しているあの人が悪い」という批判に陥っては元も子もありません。批判の矛先が個人に向けられたのみで、情報の流れと影響の流れを同一視する「強力効果説」は維持されたままです。
インターネットが普及した現在、我々は一人一人が「メディア」であるといえます。誰かからの情報に影響を受ける可能性もあれば、自らが発信した情報に誰かが影響を受ける可能性もあります。この「誰か」に、人間とテレビなどのマスメディア、少数多数の区別はありません。多数の人間に情報を発信できる個人であれば、これまでマスメディアに求められていた、情報を公平性や人権等を考慮して取捨選択する責任も、一部負わなければなりません。その責任を放棄したのが「炎上」であり、インターネット上に写し出された、我々人間の課題でもあるといえます。
インターネットの普及はマスメディアの課題だけでなく、我々人間の課題も浮かび上がらせました。しかしこの状況はむしろチャンスともいえます。自らの課題に自覚的でいられる可能性が増大したからです。そして我々もマスメディアや著名人から送られてくる情報に全てを決定されるほど無知でも無力でもありません。マスメディアの情報が不足あるいはゆがめられている場合は、我々がインターネットを駆使して補い、訂正し、我々が責任ある情報を発信できない場合は、マスメディアがそれを不特定多数の人々に伝えるなど、我々とマスメディアの関係は相補的なものとなりつつあります。傍観者でいるのではなく(それは現代においてはほぼ不可能といえます)、その相補的な関係に参加することが、メディアと人間の課題を克服する歩みへとつながるのではないでしょうか。
その第一歩として、まずはメディアと人間の関係について様々な調査と議論が重ねられた、マス・コミュニケーション研究の世界をのぞいてみてはいかがでしょう?