英語圏以外の国に行くと言っても、国によっては英語が通じ、現地の言葉をわざわざ学ばなくても生活が成り立つこともあるでしょう。
語学の習得には日々の継続した学習が求められ、誰もが楽に成し得るものでは決してありません。
英語で乗り切ることを否定はしませんが、僕は現地の言葉も学んでみることをお勧めします。
ここで述べることはあくまで経験に基づいた仮説ですが、言語の習得は頭のつくりや思考法に影響を及ぼすと僕は考えています。
日本語話者は、日本語っぽい思考や癖を持っているはずです。そこに英語や他の言語を学ぶことで、より複雑で特別な頭を手に入れることができるようになります。本人も自覚できるほどの変化もあれば、気付くことのできない変化もある、と信じています。
英語圏以外に滞在することは、英語以外の言葉を学ぶ絶好の機会です。そして、僕の仮説に基づいて言うならば、それは頭の構造を変える大きなチャンスでもあるのです。
僕がイタリア語の学習を通して、大きく変わったと自覚しているものを2つ挙げます。
・聞き取る能力が上がった
イタリア語は話す速度が非常に速い言語です。ローマ字読みのようなはっきりとした発音を、ブロロロロと口から巧みに発する様子は非常に美しいのですが、学習当初は頭がまるでついていきませんでした。
次第に慣れ、発せられるイタリア語の意味が理解できるようになったとき、ある変化が起こりました。日本語が遅く聞こえるようになったんです。これはイタリア語の学習が途絶えている今もそうで、日本語のラジオや動画を視聴するときはいつも、再生速度を1.5倍速にしています。おかげで、以前の自分より1.5倍の速さで情報が得られるようになりました。笑
・論理的思考力が上がった
日本語は良くも悪くも曖昧な言語で、主語は必ず必要というわけでもないし(これはイタリア語もですが)、適当な表現でも伝わっちゃいます。細やかで美しく、趣のある表現に溢れる言語ですが、それらの使い分けに厳密な決まりはなく、その場にふさわしいか否かによって使い分けがなされているように感じます。
一方、イタリア語に限らず英語等においては、主語の位置、動詞の位置と変化、助動詞と組み合わせたときの動詞の形など、明確なルールが多数存在します。口語文や軽いノリの話し方もありますが、それでも日本語よりは縛りの多いものだと思います。また、これもよく言われるものですが、肯定や否定は文の頭の方でなされるため、曖昧な表現を駆使した「逃げ」もあまり通用しません。
あくまで自覚の範囲ですが、イタリア語(と英語)の学習を経て、日本語にはない構文や言い方を学ぶことで、論理的に物事を考える力が上がりました。結局、僕たちは言葉を使って考えているわけですから、その言葉自体の性質や色が思考に影響を及ぼすことも、何ら不思議なことではないのかもしれません。
現地の方とより深く関わるためには、英語よりも現地の言葉が向いているのかもしれません。
例えば、僕のホームステイ先のご家族はそもそも英語が話せませんでした(イタリアに着いてから知りました)。英語を話せる他の家族のところへ変更することも可能でしたが、僕はそうしませんでした。これこそ求めていた環境であり、イタリア語でイタリアの方々と触れ合えるなんて夢のようだと思ったからです。初めは勿論拙いイタリア語しか話せず、家の中でも辞書を持ち歩いていましたが、僕の亀のような会話にもご家族は耳を傾けてくれていました。そうしていくうちに、僕とご家族の間には、まるで本物の家族であるかのような強い関係が生まれ、今でも連絡を取り合うほどの仲になりました。
また、インターン先でも僕は積極的にイタリア語を使おうとしました。インターン先は世界中に展開している国際的な会社だったので、ほとんどの社員は英語を話せたのですが、それでもあえてイタリア語で会話をしていました。英語だったら信頼してもらえなかったかも、とは思いませんが、イタリア語を使うことでより親しみのある関係を築けたように感じています。時折、技術的な会話をした後、社員さんに「イタリア語うまいね~」と言ってもらえたことがありました。そのときの喜びは今も忘れられません。
英語を使える環境であっても現地の方々同士の会話は、当然ですが現地の言葉で行われることでしょう。小さな会話でも何でも聞き取ったり、会話に加わったりするためには、やはり現地の言葉が向いていると僕は思います。
言語を学べる機会を持つことは、何よりも素晴らしいことだと僕は考えています。
「この言葉を学ばないと現地で生活できない!」「英語が使えない人との会話ができない!」といった強迫観念があれば、嫌でもやる気が湧いてきます。笑
英語圏以外の国に滞在する機会のある人は、是非現地の言葉を学んでみてはいかがでしょうか。
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