日中の友好の印として、ジャイアントパンダが日本に初めてやってきたことは、多くの方がご存知ではないでしょうか?
ここでは、パンダ来日直前のパンダブームのきっかけから、現在の日本のパンダ事情について紹介します。
日本最古のパンダに関する報道は、前のページで紹介した、アメリカで生きたパンダが公開されたことで、はじめはパンダについて好意的に報道されていたようです。
しかし、戦時中は、パンダを「敵の工作員」として、中国がアメリカにパンダを贈ったことが報道されていました。その際に、ジャイアントパンダではなく、レッサーパンダの写真が間違って掲載されるほど、パンダの知名度はなかったようです。戦後の60年代ごろまで、日本人のパンダへの関心は低かったようです。
70年代に入ると、パンダを飛躍的に広げるメディアが登場しました。1970年に創刊された女性ファッション誌の『anan』です。アンアンという名前は、当時モスクワの動物園にいたパンダの名前で、創刊号にはパンダのイラストが表紙に掲載されています。流行を発信するファッション誌がパンダをアイコンに据えたことで、「パンダ=カワイイ」という感覚を日本人に与えました。
日本でパンダブームが決定的となったのは、1971年に昭和天皇の訪欧の中で、ロンドン動物園に立ち寄ったことが重要だったとされています。天皇は過密スケジュールの中、パンダをご観覧され、動物園での滞在予定時間を20分もオーバーしたそうです。パンダの前で、この旅行中で一番の笑顔を見せたと報道され、日本でもパンダへの関心が高まっていきました。
1972年9月、田中角栄が「日中共同声明」に調印し、待望のパンダの来日が決定しました。同年10月28日にカンカン・ランランという2頭のパンダが来日しました。日本にやってきたはじめてのジャイアントパンダです。
来日から9日後に一般公開が始まり、熱狂的なブームが巻き起こりました。公開初日の上野動物園にはパンダ目当ての来園者が押し寄せ、徹夜組を含めた入場者の列は上野駅まで2キロメートルにも及んだそうです。パンダの爆発的な人気にあやかった『パンダコパンダ』(東宝)をはじめとする映画や、パンダパンなどパンダ関連商品が日本各地で流行したそうです。
また、カンカン・ランランによる第一次パンダブームの後にも、1986年にホァンホァン(1980年 上野動物園に来園)とフェイフェイ(1982年 上野動物園に来園)の間に生まれたトントンが健やかに成長する姿が、第二次パンダブームを引き起こしました。
2011年、上野動物園はリーリー・シンシンという2頭のパンダを受け入れますが、それまでのパンダ歓迎のムードとは異なった様相が見られました。
2008年、当時の胡錦濤国家主席が2頭のパンダの貸与を表明した直後から、東京都や上野動物園には連日反対意見が届いたそうです。
これまでのパンダ歓迎ムードから一転した理由の一つとして、パンダに「レンタル料」がかかるようになったことがあります。
1984年にパンダがワシントン条約によって、学術研究目的でのみ輸出入が可能になり、かつ輸入国は1ペアのパンダあたり年間100万ドル程度を中国に支払わなければならなくなりました。(このレンタル料は、パンダの生息域における野生動物の保護・研究資金となっています。)
他にも様々な要因による日中関係の冷え込みから日本でのパンダへの風向きは変わったようです。
(写真:上野動物園で暮らすリーリー・筆者撮影)
2024年3月時点で、日本では3か所、全9頭のパンダが飼育されています。
レンタル料などへの批判がありつつも、日本でのパンダ人気は健在です。
特に、上野動物園生まれのシャンシャン(2017年6月生まれ、2023年2月に中国に移動)の人気ぶりは凄まじいです。5歳の誕生日には、最大240分待ちの列ができました(参考:東京ズーネット シャンシャン5歳の誕生日当日)。また、経済的にも、上野動物園内の売店や飲食店の収入が計上される東京動物園協会の、2018年度の収益事業会計の黒字が2016年度の14倍にもなっていることなどから、2017年生まれのシャンシャンが大きな経済効果をもたらしたとみられています。
また、上野動物園以外のパンダも見逃せません。民間企業が経営する和歌山県のアドベンチャーワールドは、1994年に世界初のブリーディング・ローン方式による日中共同のパンダ繁殖計画をスタートさせました。その際に来園した永明は、2023年2月に中国に返還されるまでに、計16頭もの子どもをもうけ、繁殖研究において大きな成果を生む立役者となりました。中国に帰国後も、在大阪中国総領事館、成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地らが共催した永明の誕生会がアドベンチャーワールドで開かれました。多くのパンダファンが集まり、パンダは日中友好の懸け橋となっています。
※(追記)王子動物園のタンタンは、2024年3月31日に亡くなりました。
(参考:ジャイアントパンダ「タンタン」病死のご報告)
女性誌『女性自身』は定期的にパンダの記事を掲載していました。それをまとめた特別号として『パンダ自身』という雑誌が刊行されています。
2020年12月に1頭目(1冊目)が刊行されてから3年ほどで、6頭目まで発売されており、人気ぶりがうかがえます。
みなさんは、黒柳徹子さんがパンダ好きであることをご存知でしょうか?
黒柳徹子さんは子供の頃にアメリカ土産でもらったパンダのぬいぐるみを戦時中もつれて逃げたそうです。はじめは、めずらしい柄のクマのぬいぐるみだと思っていたら、本当にその柄をしたパンダという動物がいることを知り、パンダに興味を持ったそうです。
パンダ初来日前の1968年にロンドン動物園にパンダに会いに行ったこともあるそうです。
今でも、日本パンダ保護協会の名誉会長や上野動物園で生まれたパンダの命名委員を務められ、パンダ愛を注いでらっしゃいます。