ここでは、パンダが人間に初めて「発見」され、時代の変遷を経て、中国の国宝・外交の使者になるまでの経緯を紹介します。
(ジャイアントパンダ発見の地付近にあるパンダのモニュメント・筆者撮影)
パンダの生息地は中国南西部の山林地帯です。
紀元前200年頃の文献にパンダらしき動物の記述があるようですが、生息地の山深さから人間ははっきりとパンダの姿を捉えることができなかったようです。
そこで、人間がジャイアントパンダを初めて「発見」したのは、1869年にフランス人宣教師のダビット神父がパンダの毛皮を母国に持ち帰ったこととされています。
白黒の毛皮やクマのようでクマとは異なる骨格などの珍しさから、世界中からハンターが中国に訪れるようになりました。
1929年に、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの息子兄弟が率いる探検隊が、欧米人で初めてパンダを射止めました。この出来事は、アメリカやイギリスでの、パンダ・ハンティング熱を高め、パンダにとって受難の時代が訪れました。
この頃は、パンダは生きた状態よりは、死体から取られた毛皮や骨格に価値が見出されていたようです。
1936年、アメリカの探検家ルース・ハークネスが、パンダを生きたままアメリカに連れて帰ることに成功しました。このパンダはスーリンと名付けられ、動物園で公開されると、そのあまりの愛らしさに大人気になりました。狩猟家たちも罪悪感を抱いたのか、「パンダの狩猟射殺時代」に終止符が打たれました。
こうしてパンダに平穏が訪れたかと思いきや…
スーリンを公開した動物園は3か月間で32万5千人の入場者を集め、子供向けのぬいぐるみなどのパンダ関連商品も数多く製造されるなど、大きな経済効果をもたらしました。
大きな市場価値が明らかになった結果、次はパンダを生け捕りにしたいという時代が訪れました。
しかし、捕えられたパンダの大半は目的地に着く前に死んでしまい、たとえ中国から持ち出されても、その生涯は短いものでした。こうして、10年ほどの短い間に多くの幼いパンダが捕獲され、第二のパンダ苦難の時代が訪れようとしていました。
この悲劇が拡大する前に、中国政府がパンダの保護に乗り出します。1939年11月に中国政府の許可なしに中国国外にパンダを持ち出すことができなくなりました。その結果、「パンダ外交」と呼ばれる政治利用も行われるようになりました。
生きたパンダの持ち出しは禁止されましたが、毛皮の高額な取引などが原因で、密猟が行われていました。
結局、中国政府がパンダの禁猟に厳しく取り組んだのは80年代、パンダ保護に関する制度が整備されました。
(写真:中国保護大熊猫研究中心雅安碧峰峡基地のパンダ・筆者撮影)
2010年代以降、中国の象徴のように扱われています。万博、オリンピックのキャラクターはパンダモチーフになっています。
また、パンダ外交は多角化しており、習近平国家主席の政権下で、ヨーロッパ、東南アジア重視や、北朝鮮核問題における韓国との関係強化といった、外交戦略を反映しているともみられています。(2014年以降、ベルギー、マレーシア、韓国、オランダ、ドイツ、インドネシア、フィンランド、デンマーク、ロシアにパンダが送られています。)
かわいい動物の代表格のジャイアントパンダ。かわいいと思われている理由を紹介します!
(中国保護大熊猫研究中心雅安碧峰峡基地のパンダ・筆者撮影)
1.丸くて平坦な顔
パンダは他の動物に比べ顔が丸いため、かわいい印象を与えます。パンダの顔が丸いのは、固いタケの幹までバリバリと嚙み砕くことのできる筋肉が顔周りに発達しているからと考えられています。
2.目が大きく見えること
パンダは目の周りの特徴的な模様によって、目が大きく見えます。大きな目は無邪気で子供のような印象を与えるため、かわいいとされています。しかし、よく観察してみると、実際のパンダの目は意外とつぶらなことがわかります。
3.まるで人間のような仕草をすること
パンダはまるで人間のように真っ直ぐ座り、器用に手を使って、ごはんを食べます。他にも、おもちゃで遊んだり、木にあごを載せてみたり、仕草がかわいいです。