素粒子物理学の研究は主に理論と実験に大別されます。
ここではそのフレームワークのほんの一部を紹介したいと思います。
反物質、という言葉を聞いたことがある人は存外多いのではないでしょうか。
ダン・ブラウンのロバート・ラングドンシリーズ映画第二作『天使と悪魔』では反物質をめぐって主人公ロバート・ラングドンがローマを奔走するという設定でした。
どこかSF的な響きを含む言葉ですが、実は反物質というのは実際に存在しています(物理の文脈では反粒子といいます)。
きちんと定義しておくと、反粒子とは質量や電荷の大きさなどの性質は粒子と同じで、電荷の符号のみ逆転しているような粒子のことです。
例えば「陽電子」は電子の反粒子で、電荷がマイナスではなくプラスの粒子です。
このような粒子が理論の中に現れることを見てみましょう。
ミクロの世界を記述する方程式として、量子力学には「
この方程式は高校で習ったニュートンの運動方程式と同じようなも
これを解けば、それらの情報を引き出すことができるという寸法です。
これに特殊相対性理論をドッキングさせてみると、少し式が変わってきます。
例えば電子のようなフェルミオン[注1]に対しては、以下のような方程式が成り立ちます。
これはディラック方程式と呼ばれています。
スタートとなるのはこの式です。
iは虚数単位、γはガンマ行列と呼ばれる行列、∂というのは偏微分、mは質量をそれぞれ表す記号です。
この場合も理論に関する情報はψが担っています
このψを以降では「場」と呼ぶことにします。
ディラック方程式の解である場ψは便宜上次のように書くことができます。
数学が得意でないという方、まだブラウザは閉じずにお付き合いください。
複雑な式ですが、実はやっていることはそう難しくはありません。
例えばレジで3980円の買い物をしたときのことを想像してみてください。飲み会の会計でもいいです。
この時、もし財布の中にピッタリお金があれば1000円札3枚、500円玉1枚、100円玉4枚、50円玉1枚、10円玉3枚を渡すでしょう。
このように私たちは一つのものが何かを単位として複数のものに分解されうることを知っています。
数学にもこのような操作があり、そこではコインや紙幣は「基底」と呼ばれています。
この基底を使って元の関数を分解する操作を「フーリエ級数展開」とか「フーリエ変換」とか言います。
ここでの基底とは、高校数学でおなじみのサイン、コサインといった三角関数です。
ここで行った操作は「モード展開」と呼ばれるフーリエ変換の仲間みたいなものです。
さて、式を観察してみましょう。
積分の中を見るとuとvという二つの文字がありますね。
これらはそれぞれ正エネルギー解、負エネルギー解と呼ばれ、ディラック方程式を満たす二つの解です。
実際これらはマイナスの電荷をプラスに、プラスの電荷をマイナスにするような変換(荷電共役変換といいます)を施せば、uはvに、vはuに一致するように定義されています。
場の表式が求まったので、この理論における「電荷」を計算してみましょう。
電荷を計算するには「ネーターの定理」というとてもとても強力な武器があります。
ネーターの定理の主張は、
「理論に連続的な対称性が存在すれば、それに付随した保存量が存在する。」
というものです。
ここでいう保存量というのが、今の場合の電荷になります。
この電荷Qをディラックの理論の場合に計算してあげると次のような表式になります。
さて、積分の中身を見るとbとdに関してなんだか似たようなものがある事がわかります。
これらの記号は元々ディラック場をモード展開したときに正エネルギー解、負エネルギー解の係数のようにしてくっついていたもので、その意味については触れていませんでした。
詳細は省略しますが、実はこの式の中のb†bはbという粒子の数を、d†dはdという粒子の数を表現しています。
そして最も注目してほしいのが、それらの前の符号です。
bの前にはマイナスが、dの前にはプラスがついていますが、これはbはマイナスの電荷をもっていること、dはプラスの電荷をもっていることを表現しています。
電子と陽電子を例にとると、bが電子でdが陽電子です。
このように、特殊相対論と無矛盾な量子論を考えると自然に反粒子の存在が出てきます。
これは驚くべき事実であり、当のディラックでさえもその取扱いには難儀しました。
現在では反粒子の存在は実験的にも確かめられており、理論上の存在ではなくなっています。
映画のように安定して存在させることはできていませんが、既に素粒子実験では加速器で反粒子を生成し、それを種々の実験に活用しています。
[注1]この世に存在する素粒子は全てフェルミオンかボソンのどちらかのグループに属しています。このうちフェルミオンには電子やニュートリノなどがあり、スピンが半整数であること、一つの"状態"には一つの粒子しか入れないといった特徴を持っています。状態というと難しく聞こえますが、イメージとしては寸分狂わず全く同じ場所にボールは二つ置けません、といったニュアンスです。
素粒子にどんな性質があるのか探る際、最も手っ取り早い方法は素粒子同士をぶつけてどのように相互作用するのかを観測することです。
この時、どの角度にどのぐらいの数散乱されたかを評価する指標になるのが「散乱断面積」という量になります。
場の量子論を使うと加速器によって光速近くまで加速された素粒子同士の散乱断面積も計算可能になります。
ここではその計算に使われる画期的な方法をご紹介します。
「ファインマンダイアグラム」
ダイアグラムというのは日本語で図のことを指し、
具体的には以下のような図です。
Fig3. 粒子散乱の一例
この図は下から上に見ていきます。
矢印は運動量の向きを表しており、陽電子の場合は進行方向とは逆向きになっているので注意が必要です。
この波線は光子を表現しており、飛んできた電子と陽電子が対消滅して光子が生成されている、と解釈されます。
このダイアグラムの強力な点は、この絵を見るだけで簡単に計算式を書きくだせてしまうということです。
実際このダイアグラムから振幅M[注1]を計算してみると、
のようになります。
複雑な式ですが、この式を書き下すためのルールは非常にシンプルです。
では上の式を書き下すために必要なルールを列挙しましょう。
つまりこんな感じです。
やることは、それぞれのパーツに適切な記号を割り当て、最後にすべてをかけ合わせるだけなのです(もっと細かいルールに関しては参考文献リストに挙げた場の量子論のテキストを参照ください)。
ルールさえ覚えてしまえば、たとえ物理が苦手であっても計算できてしまう、強力な手法です。
今求めた振幅はダイアグラムに頼ることなく計算だけで求めることもできます。
しかし、ファインマンダイアグラム[注2]は(1)物理的直観を大事にしつつ、(2)遥かに容易に式を書き下せる、という点で非常に優れた技法なのです。
[注1]厳密には行列要素とか量子力学とのアナロジーで散乱振幅とかと呼ばれます。「Aという状態からBという状態になった」というときにその遷移の「情報」を担う量です。
[注2]実はなぜファインマンダイアグラムで計算ができるのか、厳密には証明されていません。その数学的基礎付けは未だ未解決問題であり、それを証明するための「道具」すらない状況です。