まずはじめにご紹介するのが、島根県は海士町の事例です。
島根県の沖合に隠岐諸島という4つの島があり、この中のひとつ中ノ島に海士町は位置しています。
ここ海士町は、今現在、まちづくりに関して最もホットな地域のひとつでもあります。
人口は2010年時点で約2,400人と小さな町ですが、それにもかかわらず、毎年多くの自治体関係者が視察に訪れているのです。
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海士町は離島であり、典型的な条件不利地域です。この町にはコンビニエンスストアもなければショッピングモールもありません。しかも、本土までは船で3時間近くかかるときています。
しかし、島に入ると、まず目に付くのが「ないものはない」というフレーズが書かれたポスター。
このフレーズには、①無くてもよい、②大事なものはすべてここにある、という二重の意味が込められているそうです。都会の便利さや娯楽がなくともこの町は充分に満たされているのだという町の誇りが感じられます。
実際に、町の人口のおよそ1割が、町外からやってきたIターン者で構成されており、しかも、一般に高学歴と呼ばれる大学を卒業した人や、かつては大企業に勤めていたといったような優秀な人材が、この町に魅力を感じたくさん移り住んできているのです。
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さて、それではいよいよ、海士町のまちづくりの取り組みについて見ていくことにしましょう。
海士町のまちづくりにおける立役者の一人は、2002年にこの町の町長となった山内道雄さんでした。
2003年には当時の小泉内閣が三位一体の改革を推進したことで、全国の自治体は厳しい財政難に悩まされるようになるという状況が生まれました。
この時に山内さんがとった対応は、徹底的な支出の見直しでした。
町長自ら給与を50%カットして身を切ると、続いて町議、教育委員、職員の給与も次々にカットしていき、当時において「日本一給料の安い自治体」となりました。
しかし、こうした受け身の対応では、すぐに限界が来ます。もともとが放漫財政であったわけでもなく、使うお金を減らすだけの戦略では町を立て直せなかったのです。
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そこで次に山内さんが目指したのは、大胆にも「町を丸ごとブランド化」すること。
まず取り組んだのが、海産物のブランド化でした。
町がお金を出し第三セクター「ふるさと海士」を立ち上げ、異例の5億円もの費用をかけてCASシステムという、当時最先端の冷凍保存技術を導入します。山内さんは背水の陣でこの取り組みを推し進めます。結果として、新鮮な産地直送の魚介は都市部や海外で人気を博し、特産の白いかやブランド岩がき「春香」などの販売によって、数年後には見事黒字化に成功するのです。
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行政に続いて、民間の事業者も町のブランド化を後押ししていきます。
次に町で行われたのは、「隠岐牛」のブランド化です。
町で建設業を営んでいた男性が、2004年に政府の構造改革特区制度を利用し、有限会社「隠岐潮風ファーム」を立ち上げ畜産業に挑戦します。
この試みも、やがて実を結びました。急峻な崖地で放牧され、ミネラル分を多く含んだ草を食べて育つ隠岐牛は、松坂牛に匹敵するといわれるほどの高い評価を受けていくようになります。
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山内さんの持論は、「行政は住民総合サービス株式会社」。
町長は社長、副町長は専務、管理職は取締役、職員は社員で、税金を納める住民は株主。それと同時にサービスを受ける顧客でもあるといいます。
そして、はじめにまず職員の意識が変われば、行政全体の雰囲気も変わり、そして行政が変われば住民の意識も変わります。
町政座談会へ行くと、以前は「○○を作ってほしい」という要望ばかりであったのが、近年は変わってきたと語られています。
海士町の取り組みは、上で述べたようなビジネスだけに限った話ではありません。
近年特に注目されているのが、島へ移住してくる多くのIターン、Uターン者の存在です。
山内さんは、「島が生き残るとは、この島で人々が生活し続けること」だとして、持続可能な島の生活を目指すために広く島外との交流プロジェクトを積み重ねてきました。
その目玉の1つが、「島留学制度」です。
2008年当時、少子高齢化のあおりを受けて、島前地区で唯一の高校は統廃合の危機にさらされていました。これをなんとかすべく立ち上がったのが、「島前高校魅力化プロジェクト」。特別進学コースや地域創造コースを新設し、さらに島外からの留学生に食費や旅費の補助を行うこの取り組みはたちまち評判を呼び、2012年には入学者の約半数が島外からの留学生で占められ、全国的にも異例の学級増となりました。
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島外からの訪問者は子供たちだけではありません。大人も海士町に集まってきます。
20代から40代の働き盛りの若者が島に多く移住し、しかも彼/彼女らの多くが、いわゆる「勝ち組」と呼ばれるような、どこの企業も欲しがる優秀な人材なのです。
町は直接的にお金こそ出さないものの、Iターン者のチャレンジに対しては全面的に支援する姿勢を見せています。
島の豊かさと、人の温かさ、そしてチャレンジしがいのある環境、こうした要素が彼/彼女らを島に惹きつけるのでしょう。
このように、海士町は離島の抱えるデメリットを巧みに利用し、逆転の発想でこうした「離島の生活」を資源にまちづくりを進めてきました。
町ぐるみで取り組む果敢な挑戦は、島の外の人々を魅了し、そうした人々がさらに町に貢献していくという正のサイクルができつつあります。
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上にみたような海士町の画期的な数々の取り組みは、まずもって住民の情熱があってのことです。
2009年に策定された町の総合方針を定める第四次総合振興計画では、「島の幸福論」と題して、住民の視点から1人で、あるいは10人で、100人で、そして1000人で取り組むことのできるまちづくりの具体案が提示されました。
これに連動して住民が島のまちおこしに参画しやすくなる体制づくりも着々と整備されつつあり、海士町のまちづくりはますます活発になっていくことでしょう。
海士町の今後に注目です。