ゴフマンは最初の著作『行為と演技』において、彼自身の研究のなかで最も有名な、「ドラマトゥルギー」を用いたコミュニケーション分析を行いました。
「ドラマトゥルギー」とは、人々はコミュニケーションにおいて、その場にふさわしい「役割」を認知し、その「役割」を演じることによってコミュニケーションを成立させ、社会を成り立たせているとする考え方のことを指します。
「人間は皆、演技をしながら生きている」
唐突にこのような言葉を投げかけられたならば、あなたはどう反応するでしょうか?
「そんなわけないじゃん。私はありのままの自分で生きているよ。」と反論するでしょうか?
それとも「そんなこと当たり前じゃん。みんなそうなんだよ。」とややシニカルに肯定するでしょうか?
いずれにせよ生活するなかで何かを「演じる」という感覚は、誰もが感じたことがあると思います。
例えばこんなことを言われた、もしくは感じたことはないでしょうか?
「男の子らしく外で遊びなさい」「女の子なんだから、家の手伝いをするのは当然だ」
「社会人にふさわしい格好をしなければならない」「部下の面倒をしっかりとみれない者は上司失格だ」
このような言葉をかけられた、もしくは想起した際、あなたに求められているのは他者(単数複数問わず)の前で「○○らしく」いること、言い換えればその場で期待されている「役割」にふさわしい振る舞いを演じることだといえます。ゴフマンはこの「役割」を「特定の位置(状況)における諸個人の典型的な反応」と定義しています。
この「役割」を演じることをコミュニケーションの基本ととらえ、このコミュニケーションによって社会が成り立っていると考えたのがゴフマンです。このような考え方を「ドラマトゥルギー」と呼びます。
この「役割」はもちろん、人間が置かれている状況によってさまざまに異なります。筆者自身を例とすれば、普段大学で先生のゼミを受講する際は「学生」として、仲の良い学生同士で雑談をする際は「友人」として、図書館でバイトをする際は「Cuter」として、実家に帰省すれば6人家族の中の「長男」としての役割があり、それぞれの役割における振る舞いは全くというわけではありませんが違っています。少なくとも先生の前で「長男」のように振る舞うことはしませんし、やろうと思ってもできません。各状況における「役割」についての振る舞い方が、既に規定されており、無意識のうちにそれが身についているからです。
この「役割」を規定するものを、ゴフマンは「相互行為秩序」と呼びました。ややこしく感じるかもしれませんが、これは社会に共有されている規範や規則とは区別されます。この規範や規則が適応されるかどうかは、先の例の通り各状況によって異なるからです。大学の先生がいる前で、「長男らしく家族の面倒を見ろ」という規範は不要であるどころか邪魔です。「相互行為秩序」は、社会の規範や規則がその場にふさわしいかどうかを決め、それが正しいかどうかを線引きするものです。この「相互行為秩序」があるからこそ、人々はある「役割」を演じる責務があると感じ、他者が演じてくれると期待し、その場において「役割」を演じた方が良いと配慮することができるのです。