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アーヴィング・ゴフマンの社会学〜ありふれた「コミュニケーション」を考える〜: イメージとしての自己、プレイヤーとしての自己

アーヴィング・ゴフマンの社会学を通じ、我々にとってありふれた「コミュニケーション」について考える。

イメージとしての自己、プレイヤーとしての自己

「役割」はしばしば、それを演じる人間の内面、言い換えれば「自己」と結びつけられます。人々はコミュニケーションのなかで、「相互行為秩序」に従いつつその場に合った「役割」を演じ、互いに相手のイメージを構築していきます。

だからこそ、人々は「役割」に従いつつも「私はそんな人間じゃない」と距離を置きたくなり、自分に合った「自己」を表現する「役割」(「キャラ」)を演じることができる状況を作り出そうと、多大な労力を払うのです。「役割」から距離を置くにせよ置かないにせよ、コミュニケーションにはこのように「自己」を呈示し続けることが不可欠です。

ゴフマンはそんな人間のありふれた、面倒くさい内面さえも概念として抉り出しました。

現代でいえば「キャラ」に相当するであろう「イメージ(表象)としての自己」、そしてその「イメージ」を守るあるいは作ろうとしてその場その場で判断し、葛藤する「プレイヤーとしての自己」です。

参考文献

「本当の自分」を一つと思うなかれ

人々にとって、一時でも距離を置きたくなるほど「役割」がなぜ面倒くさいものなのかというと、それによって相手側から見た、自分の「自己」のイメージと評価が構築されてしまうからです。それは当然、自分自身による「自己」イメージと評価の構築にも関わってきます。「役割」について考えることは、人々の「自己」についての考え方を探ることでもあります。

ここで「はじめに」冒頭で挙げた、ありふれた言葉を思い出してみましょう。

              「君って○○キャラだよね」

この言葉は相手の言動から「○○キャラ」という相手の「自己」と結び付く「役割」を割り出し、「私はあなたをそう見るから、そのように振る舞うことを期待するよ」という暗黙のメッセージが込められています。

                「私って○○な人だから」

この言葉は自ら「○○な人」という「役割」を呈示することで、「私は呈示した「自己」を持つ人間である」ことを相手に伝え、そのような「自己」を持つ人間として接してほしいという「印象操作」といえます。無論言葉だけでなく、そう言ったからには呈示した「自己」と容易に結び付けられるような「役割」を演じきらなければなりません。

               「ウケ狙ったのにスベった」

自分の言動でその場をしらけさせてしまった場合、自分は「ウケを狙った」のだと、言い換えれば「その場の空気を読んであえてやった」こと、「その結果スベってしまったが、そうなることはわかっていた」ことをこの言葉で示そうとするでしょう。つまり、「ウケを狙う」「役割」から距離を置く「スベることがわかっていた」「自己」を呈示しようとするでしょう。

これらはどれも、自分の「役割」とそれに付随する「自己」を、わかりやすく言葉で呈示しようとする例といえます。「なんでわざわざ言葉にしなければいけないのか」と問われれば、「私は今「自己」を呈示しようとしていると皆が知っていることをちゃんと知っている」ことを予め言葉で伝えなければ、その「自己」は皆に受け入れられないからでしょう。

…考えすぎでしょうか?それともこう反論されるでしょうか?「その「自己」は表面的なものである」と。

確かに「役割」を演じる振る舞い全てにその人の「自己」が反映されているわけではないし、そのように他者がみなすべきでもありません。

ただこのように言う場合、知らないうちに自分にとって表面的でない「自己」、あるいは唯一の「本当の自己」があると想定していないでしょうか?

「○○キャラ」と他人に言われる、あるいは「○○な人」と自分で言うものの、本当はその「役割」から距離を置き、「誰にも見せていない一面がある」「本当の私は別にある」と考えている人もいるでしょう。前に述べたように「役割距離」が当たり前と認識されている現代では、むしろそういう人が多数派かもしれません。

「会う人によってキャラを変える」あるいは「八方美人」という言葉はマイナスな評価として使われがちですが、ゴフマンに言わせれば異なる場や人物によって「キャラ」が違うのは当然です。なぜなら人は状況によって演じる「役割」も、呈示する「自己」も違うから。

これ以上考えると人間不信に陥りそうですが、重要なのは「自己」とは一つではないという点です。

ゴフマンは、コミュニケーションにおける人々の「自己」を二つに分類しました。一つが「イメージ(表象)としての自己」、もう一つが「プレイヤーとしての自己」です。

「イメージとしての自己」はある状況、ある人物間において共有される、「こうあるべき」とみなされる「自己」のことです。正確には、ゴフマンはこの「こうあるべき」という規範意識のなかに、「自己」を宗教的な儀礼のように「神聖なもの」とみなすというニュアンスを込めていましたが、現代では「○○キャラ」「○○な人」に相当します。「プレイヤーとしての自己」はこの「イメージとしての自己」を維持し、そして作り続けようと奮闘する「自己」のことです。先の例でいえば「○○な人」であろうと努力する「自己」といえます。

一見「本音と建前」にも見えますが、正確には「イメージとしての自己」は「建前もしくは見せたい自分」、「プレイヤーとしての自己」は「本音も抱えつつ、建前や見せたい自分とその場の状況のなかで葛藤し、折り合いをつけようとする自分」です。前者は「印象操作」などである程度コントロール可能ですが、後者は前者をコントロールしようとする「自己」であり、コントロール外の要素を多分に含んでいます。

誤解を招くかもしれませんが、「イメージとしての自己」は複数存在する「偽りの自己」でもなく、「プレイヤーとしての自己」は唯一の「本当の自己」でもありません。「イメージとしての自己」は他者評価に影響を及ぼすことで、巡り巡って自己評価にフィードバックされます。また、「プレイヤーとしての自己」の反応は「イメージとしての自己」の再構成に反映されるため、どちらかに還元できるものではなく、これらは同じ状況下で同時に存在しています。強いていえば、どちらも「本当の自己」です。

           

             

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松岡 智文
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本ガイドは図書館学習サポーター/図書館TA(Cuter)として勤務した際に作成したものです。

勤務期間 :2016年4月~2021年3月
当時の身分:大学院生(博士課程)
当時の所属:九州⼤学大学院地球社会統合科学府