ジャンヌ・ダルクの生涯を語る上では、百年戦争(1337-1453年)を抜きには出来ません。
フランスに出自のある当時のイングランド王家(プランタジネット朝)は、現在の大陸フランス領の半分以上を領有していました。これまでも仏英両王家はワインや毛織物の産地を巡って対立していましたが、フランス王家が一時的に断絶した際にイングランド王がフランス王家の継承権を主張し、両家は休戦を挟む長期的な戦争状態へと突入します。
1420年代末には、イングランド側についた北フランスのブルゴーニュ軍とイングランド軍がパリを制圧し、フランス王家は中部のロワール川へと逃れました。フランスの敗北は時間の問題でした。
ジャンヌ・ダルクの生涯そのものに関しては、既に日本語で読める書籍や電子事典が多くあります。本ガイドでは、以降のトピックの前置きとして、簡単に述べるにとどめます。
ジャンヌが1412年頃に生まれたのはドンレミ(Domrémy. 現在のDomrémy-la-Pucelle)というロレーヌ地方(現在の仏独国境付近)の小村でした。フランス王家の隠し子だったというジャンヌ王女説が提唱されたこともありましたが、通説的にはやや裕福な農家の娘に過ぎず、勤勉で敬虔な女の子だったと言われています。
地図1 1429年前後の英仏勢力図
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Trait%C3%A9_de_Troyes.svg, 2021/3/1
ジャンヌ自身は、13歳の頃に「神の声」が聞こえたと証言しています。曰く、「イングランド軍からフランスを救え」と。ただし、ジャンヌの心身や病状に関する史料を手掛かりに、「神の声」は精神疾患に起因する幻聴だったとする医学的見解もあります。
1428年から翌年にかけて、ジャンヌは地元の守備隊に、自分をフランス王宮のあるロワール川(フランス中部を流れる川)のほとりの城まで連れて行ってほしいと懇願しました。はじめは頭のおかしくなった小娘だとして一顧だにされませんでしたが、最終的には苦境を打開してくれるかもしれない少女として希望を託されます。
当時、ロワール川の要衝オルレアンがイングランド軍に包囲され、ここが陥落するとイングランド軍に中仏・南仏を一挙に制圧されかねないという状況でした。また、歴代のフランス王が即位式を行った大聖堂のある都市ランスもイングランド側に制圧されており、王太子シャルル(後のシャルル7世)は正式に国王を名乗ることも出来ませんでした。そんな中に歴史の表舞台に上がったジャンヌは、1-2か月で王宮の希望の光として認められます。
司令官として一軍を託されたジャンヌは、イングランド軍の包囲を破ってオルレアンの守備隊および市民と合流、その後勢いそのままにイングランド軍の攻城砦を全て制圧し、1429年5月8日にイングランド軍を付近から撤退させます。これが有名な「オルレアン解放」です。オルレアンでは毎年この日の前後に「ジャンヌ・ダルク祭」が開催されます。
その後も進軍を続け、同年7月には奪還したランスでシャルル7世の即位式を実現させました。
しかし、王宮の内部対立に巻き込まれたジャンヌの命運に陰りが見られ始めます。イングランドのフランスからの完全撤退を早期に目指すジャンヌ派は戦闘継続を嫌う王宮から十分な支援が得られず、戦力を削がれていったジャンヌは1430年5月23日にパリ近郊の町コンピエーニュでブルゴーニュ軍に捕らえられます。敵軍に捕らえられた騎士は身代金を払って解放させるのが慣例でしたが、ジャンヌのために身代金が払われることはありませんでした。
ジャンヌの宗教性を認めないパリ大学神学部の協力を得て、イングランドは支配下の都市ルーアンでジャンヌを異端裁判にかけ、フランスの異端性と自らの正当性を示そうとしました。その結果、1431年5月30日にジャンヌの火刑が執行されました。
その後、1453年にイングランド軍をフランスから完全撤退させたシャルル7世は関係者を集めて「ジャンヌ・ダルク復権裁判」を行いました。ジャンヌの名誉回復を望む声が高まっていたのに加え、自らを助けたジャンヌの異端認定を取り消すことでシャルル7世の王威も保証されるからです。
処刑裁判及び復権裁判に関しては、参考文献リストに示すように邦訳も出ています。
図2 ドンレミ=ラ=ピュセルに現存するジャンヌの生家
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jeannedarcbirthplace.jpg, 2021/3/1
600年前に生まれたジャンヌ・ダルクの生家はドンレミ=ラ=ピュセルに現存しており、ジャンヌが過ごした部屋を含む内部を見学出来ます。村にはジャンヌに関する博物館を含め、関連施設・史跡もあります。
図3 オルレアンにあるジャンヌ・ダルク像
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Orleans20.jpg, 2021/3/1
ジャンヌが解放したオルレアンは現在でも10万人強の人口を擁する都市で、彼女を記念する彫刻や資料館、研究センターが所在しています。上図は市の中央広場にある騎馬像です。