眼科医、眼科学者。伊予松山藩侍医大西宗節の孫。明治17年(1884)東京大学予備門に学び、明治18年(1885)、ドイツに留学して眼科学を専攻した。明治23年(1890)に岡山の第三高等学校医学部教授に任じられた後、明治28年(1895)、上京して大西眼科医院を開設、日本眼科学会創立にも参加した。明治38年(1905)、京都帝国大学福岡医科大学の初代眼科教授として着任。大正15年(1927)退官、名誉教授に。在任中の大正12年(1923)には、海外視察の成果を盛り込みつつ自ら設計した眼科教室棟が竣工。世界有数といわれる規模を誇った眼科教室の基盤を作った。
ドイツ語学者。筑後久留米出身。家は有馬藩典医の家系。明治14年(1881)、東京大学医学部予科(後に東京大学予備門医科)に入学し、卒業後、同予備門(後に第一高等中学校)文科を経て帝国大学文科大学独逸文学科(第1期)に入学、明治24年(1891)に卒業し、明治28年(1895)旧制第五高等学校教授となる。帝大在学中、狩野亨吉と親交を結ぶ。また、夏目漱石(1867~1916)の親友でもあり、漱石を五高に招いたのも菅である。明治35年(1902)、第一高等学校教授に。教え子に芥川龍之介、菊池寛らがいる。能書家としても知られ、夏目漱石の墓碑は菅虎雄の筆になる(ちなみに漱石の葬儀に於ける友人代表は、狩野亨吉がつとめた)。
大西克知は、日本近代眼科医療の草分け的存在であり、明治38年(1905)に九州大学の前身である京都帝国大学福岡医科大学の初代眼科教授として招かれ、世界有数といわれる規模を誇った眼科教室の基盤を作った。特に大正12年(1923)竣工となった眼科教室棟の新築は最大の事業であり、海外視察の成果を盛り込みつつ自ら設計し、そこには充実した医療設備・機械が導入された 。唯一煉瓦を用いた図書室も、防火シャッターと鉄扉を備え、地下室まであった 。昭和2年(1927)頃の眼科教室の蔵書数は約19,000冊であり、その規模は他の教室を圧倒し、「日本一」(『九大風雪記』)の図書室と称せられた。特に5,000冊を超える和漢古医書が特徴で、そのほとんどが狩野亨吉によりもたらされたものである。
医学部眼科教室
大西と狩野は、大西の義兄で第一高等学校教授菅虎雄を介して交流があった。明治24年(1891)、大西は、菅虎雄の妹孝代と、東京英語学校長杉浦重剛(1855~1924、大西・菅の恩師)の媒酌で結婚している。大西が東京にて眼科を開業していた明治30年前後、熊本の五高に在職中の菅が上京に際して滞在したのが大西宅であった。狩野と菅は帝大在学以来の親友であり、上京した菅に会うため狩野が幾度となく大西宅を訪問していた。
大西による狩野からの図書購入については、大きく明治末年の横尾文行堂納入分と、大正後期の菱山雄平納入分の二つの時期に分かれる。
横尾文行堂納入分についての交渉は、駒場図書館狩野文庫の明治42年11月3日の大西より菅宛の書簡に初めて確認できるので(その後大西と狩野は直接書簡のやりとりをしている)、当時東京にいて狩野との往来も頻繁であった菅を介して狩野に書物購入を依頼したものと思われる。当初は和漢古医書の版本が中心だが、大正元年納入分は、漢方医岡正吉旧蔵の写本が中心である。
菱山雄平納入分については、大西が東京にて入手できる図書の斡旋を狩野に依頼したことにはじまる。大正8年度に『国書解題』・『国書刊行会叢書』、大正9年度に汲古閣版『十七史』、明板『三才図会』等の類書類を購入しており、当初は医書ではなくむしろ図書館向きの大部な参考図書類を求めていた。大正10年度からは、医書の大量購入が始まり、それは大西が退官する大正15年5月以降の昭和2年まで続くが、その間にも、類書等の参考図書類の斡旋を依頼している。
眼科教室に最新の設備を整えながら、一方で当時顧みられていなかった和漢の古医書を蒐集し、医学の発展史を理解することを重視していたことは、大西の優れた見識というべきだが、それだけではなく、類書や史書等の医書以外の大部な参考図書類を揃え、本格的かつ総合的な図書館の創設を目指していたことは特筆に価する。