実存主義文学の作家としては、サルトルやカミュ、カフカ、安部公房、大江健三郎、開高健らがいます。
いずれも、フランスや日本の戦後で活躍しました。
こういった作家たちのテクストを読むためには、ある程度、実存主義の知識が必要となるでしょう。
サルトルの実存主義では他人からどのように見られているかに、かなり重要なポイントがあります。
つまり、他人から見られた自分と、自分から見た自分のズレをとおして、新しい自分を作り出していくのです。
例えば、もし日本で徴兵制が行われ、あなたが軍服を着たとしたら、そのような自分が嫌になるかもしれません。
あるいは、ブラック企業で働くとき、あなたは「会社員」として会社のために働きながらも、その自分の姿に疑いの目を向けるかもしれません。
そのような、自分に対する「疑い」あるいはズレにこそ、自分を変えていく契機があります。
実存主義文学では、そのような「ズレ」に焦点が当てられます。
自分の役割や本質に従うことを「くそまじめの精神」とサルトルは呼びます。
安部公房の文学テクストでは、そのような「ズレ」が描かれたテクストが多数あります。
たとえば、『燃えつきた地図』などのテクストでは、主人公が都市空間で失踪するのですが、それは既成事実や本質からの逃走としても描かれているのです。
サルトルの「一指導者の幼年時代」では、ユダヤ人差別の構造が描かれています。
そのような実存主義は、フォークナーやドストエフスキーといった作家のテクストを読み解く方法にもなっています。