1995年から1996年まで、『新世紀エヴァンゲリオン』という伝説的なアニメがテレビで放映されていました。
ここでは、その『エヴァ』を題材にして、現代思想の応用例を考えてみましょう。
『エヴァ』自体、良くできたロボット・アニメとして物語が進んでいきますが、物語が後半に差し掛かるにつれて、哲学的で難解なストーリー展開になります。
特に、テレビアニメ版最終話や、最終話を別の視点から描いた旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 AIR/まごころを、君に』になると、その傾向はさらに強くなります。
『エヴァ』を現代思想との関連で視ることで、我々が「世界」を視る視点に「差異」を与えましょう。
『エヴァ』の物語は、セカンドインパクトによって世界の人口が半減した世界を舞台に、14歳のシンジ、アスカ、レイという少年少女たちがエヴァンゲリオンに乗って、第三新東京に襲来する「使徒」たちと戦う、というあらすじでまとめることができます。
使徒という他者とエヴァが戦うにあたって、「ATフィールド」というバリアが使われています。このATフィールドは単なるバリアとして使われているのではなく、自己と他者の境界線として存在しており、登場人物はこれを「心の壁」と呼びます。
サルトルは、このような自己と他者の境界線の問題を扱っており、他者によって見られる自己を自己の側から否定し、さらに自己から他者を見返すことで、他者ではない自己を提示しています。このような「まなざし」の問題は、日本の実存主義文学に多大な影響を与え、大江健三郎や安部公房のテクストには、他者に見られること、他者を見ることの問題が想像力豊かに描かれています。このように、「見る」/「見られる」ことの「相克」に、実存主義の特徴があります。
もちろん、『エヴァ』にも「まなざし」の問題はあり、エヴァには目がたくさんあるものがあり、『AIR/まごころを、君に』でも、アスカが眼球を回転させ、シンジに視線を向けて「気持ち悪い」というシーンがあります。この「気持ち悪い」という言葉は、サルトル『嘔吐』のパロディになっているでしょう。自己と他者の相克の問題は、登場人物同士の心理描写や、登場人物間で首を絞めるというような場面で描かれています。
このように考えると、作中の「人類補完計画」がATフィールドを消滅させ、人類を一つにさせるものであることから、これが、自己と他者の境界線を取り除く計画になっていることがわかります。
『AIR/まごころを、君に』では、その「人類補完計画」が内部から破壊される様子が描かれています。この旧劇場版では、人類補完計画を起こそうとするゼーレとアスカが戦って破れ、レイが巨大化して「人類補完計画」が実行されます。このとき、人類は水の中で境界線をなくして生きています。しかし、最終的に、シンジとアスカは水の外へと打ち上げられ、シンジがアスカの首を絞めて、アスカは「気持ち悪い」と言います。つまり、自己と他者の境界線がなくなった世界が実現されようとしながら、それが最終的にはうまくいかなくなり、自己と他者の相克のある世界に至るまでが描かれています。このとき、シンジとアスカは新世界のアダムとイヴでしょう。
このように、システムを進行させながらも、そのシステムの矛盾をつくことでシステムを内部から破壊するデリダの「脱構築」が、ここでは行われているのです。それは、おそらく、人類補完計画を起こそうとしたゲンドウ(シンジの父)がレイと融合しようとしたとき、レイが「私はあなたじゃないから」と言うときから始まっているでしょう。このレイの何ともサルトル的な言葉は、ここから先に人類補完計画が失敗することを予期したような表現です。そして、巨大化し、自己と他者の境界線がなくなった人類がレイと融合した後に、その巨大化したレイという、人類補完計画の象徴が死をむかえるのは、脱構築そのものです。