リュミエール兄弟によって制作されたシネマトグラフ作品は、工場や駅の風景、赤ん坊の食事の様子などの身の回りの光景をカメラで映したものです。
このように、最初期の映画は、現在のように物語を語るものではなかったのですが、現実の光景を目の前のスクリーン上で見ることができるというだけで、当時の観客には十分驚くべきことでした。
やがてリュミエール兄弟は新たな映像を入手するため、世界各地にカメラマンを派遣します。
こうして、人々はフランスに居ながらにして、世界各地の風景をスクリーン越しに見ることができるようになりました。
もちろん、この時リュミエール兄弟は日本にもカメラマンを送っています。
以下の『日本の剣士』(1897年)は、その際に撮られた作品です。
ここで、少し変わったシネマトグラフをご紹介しましょう。
『水を撒かれた散水夫』(1895年)です。
このコメディータッチの作品は、喜劇的な出来事をわざわざカメラの前で登場人物に演じさせて作られたものです。
すなわち、目の前の現実の光景を単にカメラで記録したものではなく、映像を通して作り手が観客に物語を語ったものなのです。
ここに、現在では一般的となった物語映画の萌芽が見られます。
物語映画の萌芽として挙げられる事例は、『水を撒かれた散水夫』以外にもあります。
それがリュミエール兄弟の『キリスト受難』(1897年)を始めとする聖書映画です。
なぜ物語を語る映画の題材として聖書が選ばれたのでしょうか。
それは、当時の人々は映画で物語を描くことも、映画に描かれた物語を見ることにもまだ慣れていなかったためです。
そんな状況の中で、誰もが内容を知っており、スクリーンに映し出された映像を見れば、何の話が語られているかをすぐに理解できる聖書の物語は、映画の題材としてうってつけだったのです。
こうした理由から、リュミエール兄弟に続く多くの映画制作者たちも、こぞって聖書映画を製作していました。
こうした物語的な作品もいくつかあったとはいえ、結局のところリュミエール兄弟の関心は、いかに自分たちの周りにある世界の情景をフィルムに映し、映像として再生するかにありました。
リュミエール兄弟にとって、シネマトグラフはエンターテインメントのツールというよりは、単なる科学装置だったのです。
さらに、当初は現実の光景がスクリーン上で再現されるだけで驚いていた観客達も、次第にその驚きに慣れ、飽きていきます。
映画はこのように、発明後まもなく興行としての壁にぶつかってしまいました。
この状況を打破したのが、フランスの奇術師ジョルジュ・メリエス(1861~1938年)でした。