フランスの奇術師ジョルジュ・メリエス(1861~1938年)は、パリのグラン・カフェでリュミエール兄弟によって行われた、シネマトグラフ上映第一号の招待客の一人でした。
上映された映像に感動したメリエスは、自らも映画製作に挑戦しようと企みますが、リュミエール兄弟からシネマトグラフの購入を断られてしまいます。
しかしメリエスは諦めません。
イギリスで同時期に開発されていた映写機(シアトログラフ)を入手し、それをカメラに改造することによって、映画制作に着手することに成功しました。
初期はリュミエール兄弟の模倣をしていたメリエスですが、やがて転機が訪れます。
1896年(1898年とも、諸説あり)のある日、メリエスはパリのオペラ座広場を撮影していました。
その撮影の最中、映写機のフィルムが引っ掛かり、撮影が一瞬止まるという事件が起こりました。
メリエスはすぐさまフィルムの引っ掛かりを直したので、その場は何事もなく撮影は続行されました。
しかし後日、メリエスが撮影されたフィルムを現像して映写してみたところ、そのフィルムには、広場を走る乗合馬車がとつぜん霊柩車に変身するという奇妙な光景が記録されていたのです。
これは、フィルムを直している間にカメラの前から乗合馬車がいなくなり、撮影を再開した際にたまたま霊柩車がカメラの前に来ていたために起こった出来事でした。
この出来事をきっかけに、メリエスは撮影の際にフィルムを操作することで、映画に奇術のような効果を与えることが可能であることに気づきます。
そうして作られたのが、乗合馬車の事件をヒントに生まれた「ストップ・モーション」の技術を活用した『ロベール・ウーダン劇場における婦人の消滅』(1896年)です。
ストップ・モーションの理屈は簡単で、この作品の場合は布を取る瞬間に撮影を止め、布の中にいる夫人に出て行ってもらい、もう一度を開始するだけです。それだけで、画面上では夫人が消えてしまうのです(出現はその逆をやればよい)。
まさに奇術(トリック)のような映像を作り出すメリエスのこうした映画はトリック映画と呼ばれるようになります。
現在の特撮(SFX)やCGの元祖とも言える作品です。
メリエスによるトリック撮影の誕生によって、映画は現実の光景を単に記録するだけでなく、空想の世界を描くことができるツールへと進化しました。
『ロベール・ウーダン劇場における婦人の消滅』で使用されたストップ・モーションを始め、メリエスはその後も様々なトリック撮影の技術を開発します。
例えば多重露光と呼ばれる合成技術を使ったものが『一人オーケストラ』(1898年)です。
『幾つもの頭を持つ男』(1898年)も合成技術を使って一人七役を演じています。
これまでの合成技術にさらに一工夫加えたのが『ゴム頭の男』(1901年)です。
この作品は、メリエスが台車に乗ってカメラへ近づく様子の頭の部分だけを合成することによって作られています。
このように、カメラやフィルムに手を加えることによって奇想天外な映像作り出し、メリエスは観客を驚かせました。
メリエスによって、映画が単なる現実の光景の再現ではなくなり、空想的な表現が可能となった結果、今日に見られる様々なジャンル映画の元祖的な作品が生まれます。
たとえば、『The Hounted Cassle』(1896年)は世界初の吸血鬼映画です。
おとぎ話を題材にとった『シンデレラ』(1899年)は、ファンタジー映画の元祖的な作品と言えるでしょう。
そしてメリエスの作品の中でも最も有名な作品が『月世界旅行』(1902年)です。
世界初のSF映画である本作は、ジュール・ヴェルヌの『月世界探検』とH・G・ウェルズの『月世界旅行』の二つを参考に作られており、最初期の小説の映画化作品ともいえるでしょう。
こうしてメリエスは持ち前の発想と技術によって、映画の可能性を大きく前進させましたが、『月世界旅行』をピークに次第に飽きられるようになっていきます。
また、メリエスの作品ではカメラと被写体の距離は基本的に固定されており、基本的に舞台演劇の延長線上といった趣でした。
まだ映画は映画としての独自性を完全に習得してはいなかったのです。
その後メリエスにかわって台頭したのが、映画を大規模産業として成立させたシャルル・パテでした。