フランスの実業家シャルル・パテ(1863~1957年)が映画製作に関わるようになったきっかけは、1894年にエジソンの蓄音機の露天興行をしたことでした。
やがてキネトスコープ用の映画製作を始めたパテは、1896年に3人の兄の出資でパテ兄弟商会を設立、翌年に商会は大手金融グループの支援で蓄音機と映画の興行会社に拡大します。
パテ社の活動は映画製作やネガ・フィルム製造に広げられ、系列会社を設立して、撮影記や映写機の製造、映画興行と映画レンタル業にまで乗り出し、1908年には世界最大の映画会社となります。
このパテ社の映画製作に大きく貢献したのが、映画製作者のフェルディナン・ゼッカ(1964~1947年)です。
1900年のパリ万国博覧会でパテ社の仕事を手伝ったことをきっかけに、ゼッカとパテ社のつながりが生まれ、ゼッカは1901年ごろからパテ社で映画を製作し始めます。
その頃の代表作が、『ある犯罪の物語』(1901年)です。
この作品は、とある殺人犯の男の犯行から逮捕、処刑までを描いたドキュメンタリー風の作品です。
男の見ている夢という形で回想シーンが演出されていますが、その夢の映像が壁に投影されています。
これはピクチャー・イン・ピクチャー(P in P)と呼ばれる手法で、その後も人が空想している場面の表現に活用されていきます。
映画演出の文法、つまり「映画言語」がここに誕生したのです。
初期映画の発展に貢献したのは、フランスだけではありません。
イギリスの映画製作者たちも、数多くの実験精神にあふれた映画を作り、映画の発展に貢献しています。
ロンドンから80キロ離れた避暑地、ブライトンで活動していた彼らイギリスの映画制作者達は、今日では「ブライトン派」と呼ばれています。
ブライトン派の代表的な人物としては、ジョージ・アルバート・スミス(1864~1959年)とジェームズ・ウィリアムソン(1855~1933年)が知られています。
ジェームズ・ウィリアムソンの『中国における伝道会の攻撃』(1900年)は、中国の伝道会が義和団に襲われ、イギリス海兵隊が救出に来るという作品です。
この作品では、カットとカットををつなぐことによって、物語が描かれ始めることとなります。
さらにウィリアムソンの『火事だ!』(1901年)になると、火事の発生、消防隊の出動、部屋の中の様子、火事場からの救出とさらに多い4つのシーンから構成され、より複雑な物語が構成されます。
ブライトン派のもう一人の代表的人物であるジョージ・アルバート・スミスは、被写体にカメラを近づけて撮影を行う「クローズ・アップ」の技術を活用した人物です。
代表作『おばあさんの虫眼鏡』(1900年)では、少年がおばあさんの虫眼鏡をつかってものを見ると、画面が虫眼鏡で見た拡大像のシーンへと変わります。
現在の我々からすると単純なシーンに見えますが、カメラから見る視点と少年の視点が交互に切り替わるということは、カメラという第3者的な視点と少年の主観的な視点の両方を、「自分の視点」として我々が体験しているということです。
単純に距離のレベルで考えても、カメラの位置から少年の位置まで瞬間移動していることになります。
これは映画だからこそ生まれる体験であり、固定カメラで制作された、演劇の舞台のような画面構成のリュミエール兄弟やメリエスの作品と比べると、非常に高度な認知的体験をしているわけです。
現在の我々がこの作品を何の疑問もなく見ることができるのは、映画というものの持つある種の文法に習熟しているためなのです。
また、同じくスミスの作品「メアリー・ジェーンの災難」(1903年)にもクローズ・アップが用いられています。
本作では家事をするメアリーの全景ショット、靴磨きをするメアリーのクロース・アップ、かまどに火を入れようとするメアリーの全景ショット、火をつけるメアリーのクロース・アップ、かまどが爆発する全景ショット……といった具合に、メアリーの悲劇がカメラの視点の変化とともに描かれていきますが、破綻なく物語を理解することができます。
これはショットとショットの間の連続性(専門用語で「コンティニュイティ」という)が映画制作者のあいだで意識されるようになっていたことの現れです。
さらにラストには合成技術によって表現されたメアリーの亡霊が現れるといったトリックも見られ、こちらを飽きさせません。
ブライトン派の変わり種的な作品としては、セシル・ヘップワースの代表作『ローバーによる救出』(1905年)があります。
誘拐事件を犬のローバーが解決するという作品で、現在の動物映画につながる作品です。
本作はローパーの愛らしい演技もあって大ヒットしました。