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★ヨーロッパ文学の〇〇主義って何?:中世ヨーロッパの文学: キリスト教的英雄物語:『アーサー王物語』

啓蒙主義、古典主義、ロマン主義などなど…。文学で必ず出くわすこの〇〇主義をその思想史的・歴史的背景と共に俯瞰します。

作品の時代的背景と概要

【時代背景について】

『アーサー王物語』をはじめとする中世の宮廷文学はフランスの宮廷を中心に花を開きました。それゆえ、フランスの宮廷文化成立の歴史的背景を説明する必要があるでしょう。

古代ローマでは帝国以北の「蛮族」が住まう地域を「ガリア」と呼んでいました。このガリアこそ、のちのフランスにあたる地域です。この地域に住んでいたゴール語を話すガリア人を「ケルト人」と呼びます。古代ギリシアおよびローマの影響下にありながら独自の文化を保っていたケルト人は、紀元前51年のローマの英雄カエサルによるガリア征服によってローマ化されていきます。すなわち、ガリアがローマの属州として治められるなかで、ケルト人とローマ人の間での混血が進み、俗ラテン語を話すようになりました。しかし、ローマ帝国はゲルマン民族の伸長によって崩壊してしまいます。群雄割拠となったガリアを治めるようになったのはゲルマン民族系のフランク族でした。ここにフランク王国、すなわちメロヴィング朝フランス(481-751年)が誕生しました。

フランク王国はカール大帝の時代、すなわちカロリング朝時代(751-987年)に現在のフランスとドイツ、北イタリアに至るまでの広大な領土を支配していました。カール大帝はこの広大な領土を統治するために各地に「伯」と呼ばれる行政長官を置き、監察を送ることで中央集権化に努めました。ただ、この「伯」は世襲化および貴族化していき、フランク王国ではやがて貴族が力を持つようになります。カール大帝の死とフランク王国の分割(西フランク王国・中フランク王国・東フランク王国)がそれに拍車を掛けました。この三分割された王国のうち、西フランク王国がのちのフランスになっていきます。

西暦987年に西フランク王ロベール1世の孫であるパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に即位することによって、『アーサー王物語』作品群が誕生したカペー朝(987-1328年)の時代が始まります。もともとパリ伯であったカペー朝の王権は非常に小さなもので、貴族でありながらイングランド王にもなったプランタジネット家のようにフランス王権を遥かに凌ぐ大貴族もいました。しかし、尊厳王と呼ばれたフィリップ2世がプランタジネット家に勝利すると、カペー朝フランスの王権は確立されます。それに従って諸侯同士の戦いも少なくなっていき、それぞれの地域で小さな宮廷が形成されます。この宮廷を巡って婦人を中心とする宮廷文化、そして宮廷文学が生まれてきます。

(画像:Lionel Royer, Vercingetorix Throwing down His Weapons at the feet of Julius Caesar
(画像:Charles de Steuben, King Hugh of France


【「歴史」(ヒストリア)から「物語」(ロマン)へ】

『アーサー王物語』はブリテン島に住まうケルト人たちの間で語り継がれていたアーサー王「伝説」が源流となっています。「伝説」や「神話」といった言葉は現代でこそフィクションのニュアンスが感じられる言葉ですが、「伝説」や「神話」を歌った叙事詩がそうであったように、古代や中世の人々にとっては「歴史」(ヒストリア)そのものを意味していました。同様に、アーサー王「伝説」もケルト人たちにとって彼らの「歴史」の一部でした。ケルト人の間で口承によって伝承されてきたアーサー王伝説は年代記『ブリタニア列王史』(1138年)において文書化されます。

このようにブリテン島ケルト人たちの「歴史」であったアーサー王伝説は12世紀中頃、フランスの大貴族プランタジネット家がイングランド王となることでフランスにも伝播していくことになります。フランスは前述の通り、もともとはケルト人たちが住んでいた地域で、フランス王家こそゲルマン民族でしたが、その住民たちはローマ化したケルト人たちでした。それゆえ、フランスにおいてもアーサー王伝説は熱狂的に受容され、当時は物語作家でもあったカトリックの学僧によってアーサー王「伝説」韻文「物語」へと生まれ変わっていきます。その頃のフランスでは宮廷文化が花開きつつあり、学僧たちはアーサー王伝説を韻文物語として編む際に貴婦人への永遠の愛といったような宮廷風の礼節や理想を取り入れていきました。13世紀以降学僧たちによって韻文物語として編まれたアーサー王物語は散文形式の形に整えられ、加えて様々な伝説をもとに生まれた多種多様なヴァリエーションのアーサー王物語は一つの物語群としてまとめられます。またその際、ケルト的な色彩がまだ強く残っていたアーサー王物語には抜本的なキリスト教化がなされていきます。こうして、聖杯伝説をはじめとするアーサー王物語の原型が誕生しました。

(画像:Evrard d'Espinques, King Arthur and the Knights of the Round Table

作品のあらすじ

【アーサー王の聖杯伝説について】

アーサー王物語群にはさまざまな物語は存在しますが、最も有名なものはトマス・マロリーによる『アーサー王の死』、とりわけその「聖杯伝説」についてでしょう。というのも、「聖杯伝説」は『アーサー王の死』において11巻から17巻にかけてという膨大な紙面を割いて描かれた物語であり、その後の作家たちにも大きな影響を及ぼした作品であるからです。

「聖杯伝説」はアーサー王によって騎士に叙任され、円卓を囲むことを許された十二人(円卓の騎士)の一人であるパルジファルを主人公とした聖杯を巡る物語です。この伝説は複数のバリエーションが存在しますが、基本的な物語は次のようなものです。

パルジファルはある日、体が不自由な王(漁夫王あるいは聖杯王)に出会いました。その王は聖杯城という城に住み、あらゆる傷をいやすという聖杯を持っていました。しかし、その聖杯をもってしても王の傷を癒すことができませんでした。実は、聖杯によって王が元の体に戻るためには、選ばれた訪問者であるパルジファルの「問いかけ」が必要でした。パルジファルは王の城で歓待を受けますが、その際に彼は血のしたたる燭台と槍、聖杯と銀の肉切り皿が運ばれる行列を目撃します。パルジファルは不思議に思いましたが、そのことを問わずにいるうちに晩餐が終わってしまいます。次の日、目覚めてみると城には誰もいなくなっており、城を出た瞬間に城そのものも姿を消してしまいます。その後、偶然会った従妹にこの話をすると、彼女から次のように教えられます。すなわち、もし彼が「聖杯は誰に供するものなのか」と尋ねてさえいれば、王は不具から癒されていたであろうと。そこでパルジファルは名誉挽回を求めて聖杯を探し求める果てしない旅に出るのでした。彼は幾多の試練を乗り越え、遂には聖杯を発見します。それによって王は癒され、その国土は再び祝福されました。

聖杯はキリストが最後の晩餐の際に用いた杯、あるいはキリストの磔刑の際にその血を受けた杯とされ、言わずもがなキリスト教において聖性を表す重要な道具立てです。しかし、聖杯というモチーフはキリスト教のみならず、インド=ヨーロッパ語族の間に広く存在しています。インド=ヨーロッパ語族の神話を研究したジョルジュ・デュメジルはインド=ヨーロッパ語族の神話や伝説、叙事詩などに登場する様々なモチーフに共通する構造を発見しました。第一は聖なるものや王権、法律に関する機能、第二は主として戦闘に関する機能、第三は豊穣や多産など生産性に関する機能です。

キリスト教化されたアーサー王物語における聖杯はこの三つの機能を持ち合わせていますキリスト教化以前のアーサー王物語では聖杯は「杯」ではなく、「巨釜」として表象され、ケルト民族の伝承においてこの巨釜は豊穣の象徴とされていました。ちなみに、キリスト教における聖杯も、それが最後の晩餐に用いられたことから分かるように、豊穣の機能を持ちますし、映画『ダヴィンチ・コード』にも描かれているように、聖杯を子宮の象徴として捉える解釈もあります。いずれにせよキリスト教化以前から聖杯伝説に登場する聖杯は豊穣の機能を持っています。加えて、この聖杯は戦闘に関する機能も持っています。このことはパルジファルが危険を冒して聖杯を探求することに象徴されています。聖杯の聖性に関する機能はこの杯が聖遺物であることからも明らかでしょう。

キリスト教化以前のアーサー王物語における聖杯伝説では、基本的に「巨釜」は豊穣の機能のみを象徴していました。しかし、物語のキリスト教化に伴い、「巨釜」には聖性と戦闘という二つの機能が付与され、キリスト教において重要な概念である「三位一体」を象徴する道具立てになったのでした。

(画像:Unknown, Perceval arrives at the Grail Castle, to be greeted by the Fisher King.

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