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★素粒子理論に至る道: 物理学史の広場

現代物理学を一眺め

物理学史への招待

物理学を学ぶ上で物理学史の知識が必ず必要というわけではありません.しかし,本頁ではあえてここに焦点を当ててみたいと思います.大学で学ぶ物理学は高校までのそれとは明らかに毛色が異なります.微分積分学や線形代数に基づいてより数学的に問題を評価していくことになるので,初めて習う際はそのギャップに打ちのめされることも少なくありません.また,現代においては,学部程度の物理学であれば,その知識体系もよく整備されていますので,一見無機質かつつまらないものにも感じられるかもしれません.本頁では物理の歴史をご紹介する中で,大学で学ぶ物理学も紆余曲折を経てきた生き物であること,たった数百ページに凝縮された知識の中には知られざるドラマがあることの一端を感じていただきたいと思います.

数学のもたらした光明

苦いものを味わったことのない者は,甘いものを得たことがない.
(ゴットフリート・ライプニッツ)


現代でこそ数学は物理の基礎言語となっていますが,近代以前の人々にとってそれはあたり前ではありませんでした.学問としての数学は古代ギリシャにおいてすでに萌芽していましたが,そこにはいくつか問題がありました.まずギリシャで生み出された数学は幾何学至上主義であったので,あらゆる数学的性質の根拠を幾何学に求める傾向にありました.もう一つ,古代ギリシャ来の数学では無限の取り扱いがよく理解されていませんでした.それどころか,無限は有限に劣るとして蔑視の対象にすらなったようです.

 

幾何学至上主義については,代数学の勃興によって打破されました.代数というのはつまり\(x+x^2\)というような,現代のみなさんが中学生で習うような計算手法です.それまでのギリシャ数学では数学は常に幾何へと還元されていましたが,代数の登場によって未知数については幾何学から解放されました.これをさらに発展させ,完全に抽象化したのがフランスの哲学者兼数学者のルネ・デカルトでした.デカルトは全ての量を代数的に表現し,完全に数式を幾何学から独立させることに成功しました.

 

無限の解析は17世紀に入り急速に進展しました.この時代に発展した数学こそ現代物理学にとってもなくてはならない微分積分学です.この微分積分学を語る上で外せないのがアイザック・ニュートンゴットフリート・ライプニッツです.この時代,古代ギリシャの幾何学に基づいた数学精神からの解放とともに,極限の概念が徐々に萌芽してきました.この極限の絡む問題として求積(面積や体積を求める問題)と接線の問題がありました.現代風に言えば前者は積分,後者は微分に関する問題です.これらはそれぞれ独自に進展してきたものでしたが,これらが互いに逆演算になっているという逆定理を証明したのがアイザック・ニュートンです.元々,この逆定理はニュートンの師であるアイザック・バローが示唆していましたが,ニュートンはそこに証明を与え,それを足掛かりとして微分積分法を統一的に定式化しました.

 

遅れること2年,ニュートンとは独立に微分積分法に到達したのがゴットフリート・ライプニッツです.彼は1673年から76年の間に微分積分法を発見し,84年にその成果を公表しました.その後ヤコブ・ベルヌーイとヨハン・ベルヌーイの助けを得たライプニッツは,驚くべきことに大学1年生が習う程度の微分積分学の大部分を完成させてしまいました.ちなみにインテグラルやdx,dyのような今日の微積分で使用されている記号もライプニッツが作り上げたものです.これらはライプニッツの記法と呼ばれることもあります.

            

Fig.2 アイザック・ニュートン(ゴドフリー・ネラー作)    Fig.3 ゴットフリート・ライプニッツ(クリストフ・ベルンハルト・フランケ作)

現代物理学へのパラダイムシフト

今日迄英仏墺独伊米の多数の物理学者に接触した.異口同音に革命革命と申している.(長岡半太郎)


19世紀末,世の科学者たちが「物理学はもはや死んだ」と考えた時期がありました.それまでのニュートン物理学やマクスウェル電磁気学の成功によって,後は細々とした穴埋め作業だと目された時代があったのです.しかし,それは大きな誤りであり,今の現代物理学を支える柱が徐々にその姿を現してきました.当時の物理学者たちはどのようにパラダイムシフトを経験したのでしょうか.

 

冒頭に示した長岡半太郎(注1)の言葉は相対性理論のことを指しています.しかし,19世紀末から20世紀初頭にかけてはそれ以外の分野でも新物理の必要性がゆっくりと,しかし確実に顕在化していました.当時の代表的な問題としては次のようなものがありました.

1. 放射線の起源
1895年末にヴィルヘルム・レントゲンによりX線が発見されると,1896年にはアントワーニ・アンリ・ベクレルによってウランの放射能(注2)が,1898年にはキュリー夫妻によってラジウムの放射能が次々と発見されました.一方で,これは
放射性物質が絶え間なくエネルギーを放出し続けられるのは何故かという問題提起でもありました.

2. 熱輻射
産業革命以降,製鉄の需要の高まりとともに熱輻射に関する研究が盛んに行われるようになりました.大量生産を行うには,高温の物体の発する光(輻射)から温度を測り,製鉄効率を向上させる必要性が出てきたのです.しかし,その分布式を電磁気学や熱力学の枠組みで導出することは不可能でした.

3. 光を伝えるエーテル
光の波動説は1690年にホイヘンスによって提唱されました.ホイヘンスは自身の著書『光についての論考』にて,光を伝える媒質として「エーテル」の存在を仮定しました.マクスウェルの電磁気学もこのエーテルの存在を仮定しており,1888年にヘルツが電磁波を検出すると,絶対的に静止している媒質としてのエーテル仮説の信憑性はより高まっていきました.しかし,とある実験によって雲行きが怪しくなります.エーテルはほぼ実在するだろうと考えられていた時代だったので,静止エーテル中を運動する地球上で光の速度の精密測定を行えば,光の速度差を検出できるだろうと期待されていました.しかし,予想に反し,どの方向で光の速度を測ってもそれは一定値であったのです.これはエーテルの実在性を揺るがす事態でした.

2の問題について,輻射強度の温度依存性の公式を観測結果に極めて高い精度で一致する形式で導いたのがマックス・プランクでした.彼はその分布式を半経験的に導出していましたが,その理論的基礎づけを行う上で導入されたのが「量子仮説」です.当初,分布式と比較して量子仮説はほとんど注目されていませんでしたが(注3),ここに当時の物理学の綻びを見出したのが,アルベルト・アインシュタインでした.力学や電磁気学の枠組みにおいて,エネルギーは連続的に変化するものです.つまり,エネルギーが離散化しているとする量子仮説は当時の常識に真っ向から反する,大胆な仮説でした.量子仮説が正しいのであれば,光は粒子的な構造を持っている可能性が示唆され,波として光を記述するマクスウェルの理論も根底から覆る恐れがありました.しかし,アインシュタインはこれを積極的に受け入れ,エネルギーではなく光そのものが量子化されているとする光量子仮説を打ち出します.この光の量子性に関する考察を皮切りに,微小構造を司る物理の探究が本格化していくことになります(量子力学の詳細は後述する解析の谷を参照).

また,3の問題についても先陣を切ったのはアインシュタインです.当時,エーテルの実在性は揺るぎないものでした.実際,光の速度差が見出せなかったことについて,オランダの物理学者ヘンドリック・ローレンツはエーテル中を進む物体はその方向に収縮するものとする仮説を提唱しました.現代の私たちからすれば,ただの帳尻合わせにすぎないことは言うまでもありませんが,それほど当時の人々にとってエーテルの存在は大きかったのです.そんな中,アインシュタインは抜本的な改革の必要性を感じていました.そこで1905年の論文(後述する現代物理学への扉を参照)にて打ち出されたのが相対性原理光速度不変の原理です.相対性原理はエーテル仮説にあるような絶対的な静止空間を特定することはできないと主張します.これは作業仮設としてのエーテルは必要ないことを意味していました.これに対して,光速度不変の原理とは,いかなる慣性系においても光の速度は不変であるとするものです.これを機に相対性理論の時代が幕を開け,従来の古典力学や電磁気学では太刀打ちできなかった現象も,次々に解き明かされていくこととなりました.かくして,現代物理学の2大巨塔である相対性理論と量子力学はその産声をあげるに至ったのです.


[注1] : 長崎県出身の20世紀の日本を代表する物理学者.正の電荷を帯びた原子核を中心に負の電荷を帯びた粒子がリング状に回っているとする土星型原子モデルを提唱した.冒頭の一文は長岡半太郎がヨーロッパを訪問中に日本に向けた手紙の中にあったもの.本多光太郎,鈴木梅太郎と共に理研の三太郎と呼ばれている.

[注2] : アルファ線やベータ線のような高エネルギー粒子やガンマ線やX線のような高エネルギーの電磁波を総称して放射線と呼ぶ.放射能は放射性物質が放射線を発する能力のこと.

Fig4. 放射性物質・放射線・放射能の関係図
(『放射性物質汚染廃棄物処理情報サイト』(環境省)より借用, URL : http://shiteihaiki.env.go.jp/radiological_contaminated_waste/basic_knowledge/how_different.html, 2023/03/09閲覧)

[注3] : 実際,プランクも量子仮説に対しては実験と理論を一致させるための便宜的な操作ぐらいの認識であったよう.そこに物理的意義を見出してはいなかった.

参考文献

本節における記述は以下の書籍を参考にしました.物理学史を紐解いてみると偉大な先人たちがどのように思索をめぐらせ,自然現象を理解しようとしたのか,その営みの一端を垣間見ることができます.これを機にみなさんも是非物理学史に触れてみてはいかがでしょうか.

Column2:それでも地球は回っている

「それでも地球は回っている」,これはイタリアの科学者ガリレオ・ガリレイの「遺した」言葉です[注1].ガリレオといえばピサの斜塔における落体の実験を思い浮かべる人が多いかもしれません.ある日,ガリレオ・ガリレイという新進気鋭の科学者がピサの斜塔に登った.てっぺんにまで登ったガリレオは,高らかな合図とともに黒壇と鉛でできた2つの球を同時に落とした.当時の学説は物体の落ちるスピードは質量が大きいほど速くなるというのが主流だった.しかし,実際には2つの球は同時に落ち,若き教授は「アリストテレスの原理は明確に否定された」と宣言した([1]より.一部改変.).この出来事が本当にあったのかどうかは意見の別れるところですが,挑戦的で野心家なガリレオの人柄をよく表しているといえます.

ガリレオの宗教裁判は科学と宗教の歴史をなぞる上で避けては通れない重要な出来事です.ガリレオは天体観測用の望遠鏡を開発し,近代科学における実験をより大衆的なものとしました.彼は自身の天体望遠鏡を用いて月面の詳細な観察や木星の衛星の発見,金星の満ち欠けなど天文学上の重要な発見を次々と成し遂げていきました.特に最後の金星の満ち欠けは金星が地球中心ではなく太陽を中心として運動していることを示す重要な証拠でした.つまり,コペルニクスの提唱した地動説を支持するものだったのです.彼はさまざまな観測結果を著書『星界の報告』の中で発表しました.これを面白く思わなかったのがキリスト教に師事する聖職者たちでした.それまでキリスト教の教義ではプトレマイオスによる天動説,つまり地球を中心に宇宙が回っているとする学説が採用されており,ガリレオの発見はそれと矛盾するものだったのです.ガリレオは2度に渡り宗教裁判にかけられました.1616年の1度目の裁判では,ベラミルーノ枢機卿と宗教裁判官によって,これ以上地動説を論じたり,大衆に広めることのないようにとの通達を受けました.しかし楽天家でもあったガリレオは以降も地動説を支持し続け,1633年,ローマにて監禁状態で2度目の宗教裁判にかけられてしまいました.そこでガリレオは終身禁固刑となり,自身の著書『天文対話』も出版を禁じられてしまいます.以降,減刑されたガリレオはフィレンツェの自宅で謹慎処分を解かれぬまま亡くなることとなるのです.

信教の自由が保障されている現代において,学説が弾圧の対象になることはありません(少なくとも日本では).真実を追い求める科学と心の拠所としての宗教は決して対立するものではなく,互いに尊重されるべき枠組みであることを忘れないようにしたいものです.


[注1]この言葉はガリレオの伝記作者の創作であるとも言われています.

参考

  1. ウィリアム・H・クロッパー, 『物理学天才列伝 ガリレオ,ニュートンからアインシュタインまで』上, ブルーバックス, 講談社 (2009).
  2. 田中一郎, 『ガリレオ裁判 ー400年後の真実』, 岩波新書, 岩波書店 (2015)