「行動」と「遺伝子」とのかかわりを研究する学問として、「行動遺伝学」という分野が存在します。上の2冊は、行動遺伝学の基礎や、線虫をはじめとするモデル生物を用いた研究例、行動遺伝学で用いられる研究手法などが分かりやすく紹介されています。
次に、線虫を用いた研究で最も盛んに行われている分野の1つ、「神経系の構造と機能」に関する研究について紹介していきます。
私は、普段から、五感を通じて周りの環境から様々な刺激を受け取ったり、物事を学習したりしながら生活を送っています。その中で、「脳」は重要な役割を担っていますが、その機能についてはまだ分からないことが多いです。「脳」の働きについて調べるために、ヒトやマウス、ショウジョウバエなどが用いられていますが、神経細胞の数がヒトだと86億個、ショウジョウバエでも約25万個と複雑で、解析が容易ではありません【図16】。
そこで、「脳」の働きをより詳しく調べるために、線虫をモデルとして研究が行われています。「線虫C. elegansとは?」の章でも述べましたが、線虫の神経系は、302個という非常に少ない神経細胞から成り立っています【図16, 17】。さらに、電子顕微鏡による線虫切片の解析で、全ての神経細胞の結合がすべて明らかになっています【図18】[7, 8]。このプロジェクトを実行したジョン・ホワイトは、340ページにもわたる論文に、一つ一つの神経細胞と、他の細胞とのつながりを詳細に記述しています[8]。線虫は、ここまで神経回路が詳細にすべて明らかになっている数少ない生物の1つです。
線虫は単純な神経系にもかかわらず、匂い、温度、味覚、タップなどのさまざまな刺激に応答することができ【図18】、環境の変化に応じて学習を行い、行動を柔軟に変えること(行動可塑性)を示します。
線虫のシンプルな神経系の利点を活かして、「行動などがどのように制御されているのか」や、「どのように学習が起こるのか?」などといった「脳」の機能の謎に、細胞レベル・遺伝子レベルで詳細に解析がなされています。
【図16】生物間での神経細胞数の比較
ヒトでは、約86億個と推定されていますが、線虫では、たったの302個!!
【図17】線虫の神経系の全体像 (参考文献[7]より引用、加筆)
【図18】線虫の神経回路図(一部) (参考文献[7]より引用、加筆)
線虫の神経細胞にはそれぞれ1つ1つに、基本的に3文字のアルファベットで名前が付けられています(これも、線虫だけ!!)。また、図で神経回路を示すときには、感覚神経は三角形、介在神経は六角形、運動神経は丸で書かれることが多いです。
参考論文
[7] Fang-Yen, C., Alkema, M. J., & Samuel, A. D. (2015). Illuminating neural circuits and behaviour in Caenorhabditis elegans with optogenetics. Philosophical transactions of the Royal Society of London. Series B, Biological sciences, 370(1677), 20140212. https://doi.org/10.1098/rstb.2014.0212
[8] White, J. G., Southgate, E., Thomson, J. N., & Brenner, S. (1986). The structure of the nervous system of the nematode Caenorhabditis elegans. Philosophical transactions of the Royal Society of London. Series B, Biological sciences, 314(1165), 1–340. https://doi.org/10.1098/rstb.1986.0056
線虫の神経系を用いた研究例として、「記憶を忘れるメカニズム」の研究をご紹介します(個人的な研究の宣伝)。
「記憶を忘れる」ということ
我々ヒトを含めて、生物は、経験を通じて、様々な情報(例えば、高校時代の思い出、講義で勉強したこと、昨日何食べたか?など)を記憶しています。そのとき、古い記憶が新しい記憶の邪魔をして混乱しないために、一部の記憶を忘れて、脳内にある情報を、「忘却」を通じて消去しています。この記憶の「忘却」に関する分子メカニズムは、記憶を獲得するメカニズムと比べると、ほとんど解明されていません。なぜならば、忘却は「いつの間に(受動的に)」起こるものだと考えられており(*3)、そこに「遺伝子が働いて積極的に忘れさせる機構なぞ存在しないものだ」、と長らく無視されていたからです。
線虫を用いて、「記憶を忘れる分子メカニズム」に迫る!
そこで、記憶を忘れる分子メカニズムについて迫るために、シンプルな神経系を持つ線虫を用いて、研究を行っています。まずは、「線虫の記憶と忘却ってなんや?」という方のために、モデルとなっている現象について説明します【図19】。線虫は、通常、ジアセチルというヨーグルトに近い匂いを好んで、寄っていく性質があります(*4)。しかし、一定時間エサがない状態でジアセチルに曝し続けると、ジアセチルにあまり寄らなくなります。この現象を「嗅覚順応」と呼び、匂いに対する馴れの「記憶」として考えています。その後、ジアセチルがない状態で飼育すると、ジアセチルを再び誘引されるようになります。この現象を、匂いに対する記憶を「忘れた」状態とみなしています。
【図19】 線虫における、記憶の忘却モデル
これまで、明らかになった忘却の分子メカニズムは【図20】に示しています[9]。ジアセチルは、AWA感覚神経で受容されており、匂いに関する記憶はその細胞に保持されていると考えられています。そして、AWAとは別のAWC感覚神経からの「忘却促進シグナル」の分泌によって、積極的に忘却を起こしているメカニズムが明らかになっています。しかし、「忘却促進シグナル」の正体や、忘却に関わる神経回路の全体像など、まだまだ分からないことが多いので、現在も研究を続けています。
【図20】 線虫を用いた研究で明らかになった、記憶を忘れる分子メカニズム (参考文献[9]を基に作成)
注釈
(*3) 例えば、試験前に必死に覚えた公式も、しばらくたつと「いつの間にか」忘れてしまっている、といった感じ。
(*4) なぜ、線虫はジアセチルに誘引されるのか?
簡潔にいうと、ジアセチルは線虫のエサに関連した匂い物質だからです。ジアセチルは、大腸菌が代謝物として出す(匂い)物質で、視覚のない線虫はこれを頼りにエサを探しています。
参考文献
[9] Inoue, A., Sawatari, E., Hisamoto, N., Kitazono, T., Teramoto, T., Fujiwara, M., Matsumoto, K., & Ishihara, T. (2013). Forgetting in C. elegans is accelerated by neuronal communication via the TIR-1/JNK-1 pathway. Cell reports, 3(3), 808–819. https://doi.org/10.1016/j.celrep.2013.02.019
線虫は全ての神経回路が明らかになっているので、それを実際にロボットの電子回路に組み込んでプログラムを組んで、実際に刺激を与えたときの線虫の動きを再現しているそうです【動画3】。
【動画3】 C. elegans Neurorobotics
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