第12回は『図書館の貴重書庫に眠る、ヘンな本』です。
★『脚気』という病気、授業や本の中で聞いたことがあると思います。子どもの頃の健康診断で、ヒザをハンマーみたいなもので叩かれたことがある人もいるのでは?
★今ではほとんどの人がかかることのない脚気、実は戦前までは結核と並ぶ国民病だったこと、知っていますか?1910年にビタミンが発見されるまで原因も治療法も分からず、明治時代には海軍と陸軍で脚気をめぐって争いになったことも。(当時の陸軍軍医が、なんとあの森鴎外。詳しくは『鴎外最大の悲劇』をお読み下さい)
★そんな近代の日本人たちが右往左往して苦しんだ病、実は古代中国(隋や唐)では、原因も対処法もすでに確立していました。どこでどうして、私達は診断方法を誤ってしまったのでしょうか。医学図書館の貴重書庫にある和漢書を紐解いて、その経緯を辿ってみましょう。
興味のある方は以下のガイドもぜひご覧になって下さい!
医学図書館にある貴重な古医書たち (2016年後期の展示図書)
脚気はビタミンB1(チアミン)の欠乏による疾患で、ビタミン発見の端緒となった疾患の一つである。
夏季に多く、初期には全身や下肢の倦怠感食欲不振などがあり、しだいに下肢のしびれ感や知覚異常がおこり、多発性神経炎の症状が現れる。さらに進行すると、運動麻痺が加わり、腱反射が消失して手足に力が入らず、寝たきりとなる。また、心不全となり、放置すれば脚気衝心とよばれ、ショック状態となって死亡する。そのほか、脚にひどいむくみなどの症状がでる。
白米ばかり食べて十分な副食を摂らないと発症しやすく、日頃から玄米や麦飯、大豆を食べていると防ぐことができ、発症してもこれらを摂れば治る。近年では栄養バランスのとれた食事により患者数は少数だが、昭和に至るまで白米を常食してきた日本では猛威を振るった病気であった。
原因究明を困難にしたのは以下のような理由があった。
「脚気」という病名がはじめて医書に現れるのは、中国晋の時代(265-420)に成立したといわれる『肘後方(ちゅうごほう)』※1である。まず嶺南(現在の広東省のあたり)に始まり、少しずつ長江下流域にやって来たと記されている。数としてはまだ多くなかったようである。
隋の時代(581-618)になると、初発状態、臨床症状、経過、内攻状態、危険症状、脈診による病状判断、迅速治療の必要性など、詳しい臨床知識が得られていた。
重訂肘後百一方 八巻 晋葛洪撰 梁陶弘景補 寳暦七年[1757]
浪華書林河内屋新次郎 刊本 (チ-89)
本書は、中国晋代の葛洪(283-343頃)が撰したものを、江戸中期の医師香川修庵(1683-1755)が校訂し和刻(外国の本を日本で木版本として出版)されたものである。
「豉」を用いる処方の記述がある。豉は納豆のような大豆製品。今日では大豆にはビタミンB1が多く含まれていることが知られている。
※1『肘後方』 『肘後備急方』とも。元々、葛洪が『金匱薬方』百巻を撰著し、その中から一般大庶向けの実用的な方薬86方を厳選し、救急簡便処方集として『肘後救卒方』三巻(283~343年頃成)を撰著、後に『肘後備急方』となる。 「肘後」というのは袖の下や袂の事で、「手軽な」という意味。
唐の時代(618-907)には脚気は中国全土で流行しており、これは米食の広がりに関連しているとみられる。
20世紀になってビタミンが発見されるまで、脚気の正確な病因は不明であったが、すでに隋・唐時代の医書には大豆や小豆等の豆類や猪(ブタ)の生肝などを処方する記述があり、経験的にこれらのものを摂取することに効果を見出していたことがわかる。つまり隋・唐の時代には適切な治療が行われていたといえる。
しかし、宋・元の時代(960-1368)になると脚気患者が少なくなり、脚気を見知らぬ医者が増え、脚気の概念が誤った方向へ向かってしまう。
唐王燾先生外臺秘要方四十巻 唐王燾撰 明程衍道訂 日本山脇尚徳同撰按語 同治13[1874] (ケ-14)
唐代の医師王燾がまとめた医書で、当時存在していた医書からの引用文で構成されている。諸医家の説を集め、さらに自己の見解を加え、薬に関しては処方箋のようなものから服用の方法まで記している。
本書は、江戸時代に山脇東洋(1706-1762)が校訂を加え刊行したものである。「脚気論」の項では、隋の医書『病源候論』※2、唐の医書『千金方』※3の風毒を病因とする説を引用している。
※2 『病源候論』 正式の書名は『諸病源候論』。隋の巣元方の撰とされているが,撰者の伝は明らかでなく,成立の正確な時期も不明。内科だけでなく各科の疾患の病因と症候を記述している。
※3『千金方』 正式の書名は『備急千金要方)』。30巻よりなる。中国、唐代の孫思邈(そんしばく)によって650年ごろに著された。人命はたいせつなものであり、千金の貴さがある、一つの処方でこれを救うというのは徳がこれを超えるものであるためである、ということから書名とされた。多くは出典が記されておらず、大部分は当時の処方を集録したものとされる。この書は唐代から宋代にかけて広く用いられた。
日本の脚気の起源については諸説あるが、「脚気」ということばと概念は平安時代に大陸より伝来したとされている。しかし、さまざまな史料の記述から、「脚気」ということばがなかった奈良時代以前にも脚気に相当する病気はあったと考えられている。
鎌倉時代、武士の台頭により食生活が質実化し、武家や庶民の間で脚気は減少したが、白米食を常としていた朝廷や公卿には多かった。古来より日本は大陸の医学知識に強く影響を受けており、中国の宋・元時代の誤った脚気概念(腰脚痛・関節疾患を脚気としていた)が、日本の鎌倉・室町時代に導入され、脚気知識に大きな誤りと混乱をきたした。
医家千字文註 惟宗時俊撰 発行年不明 (イ-137)
朝廷医惟宗時俊の撰で、医の要諦を千字文の体裁に準じて記したもの。多くの隋・唐の医書のほか、『聖恵方』※4、『三因方』※5などの宋医書をも引用しているが、脚気に関しては隋・唐医学を踏襲し、宋の誤った脚気概念に惑わされていない。
※4『聖恵方』 宋の太宗が医官院に令して応急薬方を出させ、御王懐隠らに編録させた医方書。992年頃に出版された。
※5『三因方』 正式の書名は『三因極一病証方論』。宋代の陳言の撰。病気の原因は三因(内因、外因、不内外因)によるとする。
江戸時代になると白米食が普及し、副食が軽視されたため、脚気が上流階級のみならず武士町人に至るまで大流行した。しかし、宋・元の誤った脚気概念を信じていたため、目の前で流行している病気を脚気と診断することができなかった。脚気といえば腰脚痛、関節疾患のことだと思われていた。
そのため享保年間(1716~36)に江戸で大流行したときは「江戸煩(えどわずらい)」とよばれ、奇病とされていた。
牛山先生活套 三巻 香月牛山※6著 安永8[1779] (コ-47)
中湿の項に「江戸煩」のことが書かれている。原因も治療法も分かっていなかったようで、故郷に帰れば多くは治る、というようなことが書かれている。脚気の項ではなく、中湿の項に書かれていることからも脚気概念が混乱していたことがうかがえる。
※6 香月牛山(1656-1740) 江戸時代中期の医家。筑前 (福岡県) の人。名は則真,字は啓益。後世派 (中国の金・元時代の医学を宗とする人々) を代表する医師の一人。
江戸時代には複数の脚気の専門書が出版されている。享和(1801-1804)から文化初頭(1804-)には、宋・元の脚気に対する医学知識の間違いに気付き、隋・唐医学への転回がはかられる。正しい脚気概念が常識となり、 『千金方』や『外台秘要』を基礎に、それら中国医書において不備な成因論、治療法について実地臨床にもとづく創意工夫がなされるようになった。
脚気類方 源養徳輯 寳暦13[1763] (カ-20)
『千金方』、『外台秘要』、『聖恵方』等を引用記載しており、正しい脚気概念を理解している。
文化・文政(1804-1830)になると脚気の流行は江戸や京都・大阪などの都会だけではなく、中国・九州にも及び、天保(1830-)以降は全国に広がる。医者たちも必死に治療法を模索した。
脚気提要 西田尚絅輯 文化4[1807] (カ-59)
詳細な治験の記述があり、「麦飯、小豆ヲ食セシメ塩味ヲ禁ズ」という適切な処置が記されている。
叢桂亭医事小言 原南陽 嘉永7[1854]再刻 (ソ-28)
『千金方』『外台秘要』を引用しつつ、数多くの脚気患者を診療し、治験と自身の見解を盛り込んでいる。
明治になって脚気による死亡者は年間2万人にも達し、政府は1877年(明治10)12月各府県に脚気の原因究明と治療法の調査を命じた。特に外地に駐屯している陸海軍内で蔓延しており、軍当局も調査を始めた 。脚気の原因には細菌感染説、真菌説、魚毒説、タンパク質や脂肪の欠乏説などの諸説があった。
陸軍軍医部上層部は大学東校(後の東京大学医学部)出身者で占められ、彼らにとってはドイツ人教師が教えるドイツ医学が金科玉条であった。ベルツ※7、ショイベ※8が脚気細菌説を唱えたため、彼らはその説に絶対的な信頼をおいてしまったのだった。
脚気論 石黒忠悳著 明治11[1878] (カ-14)
脚気の原因は「ピルツ」(pilze ドイツ語で菌のこと)であろうと述べている。石黒忠悳(1845-1941)は西洋医学の移入、陸軍衛生部の確立などに尽力。日清・日露戦争で活躍し、陸軍軍医総監となった。
※7 エルヴィン・フォン・ベルツ(1849-1913) ドイツの医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人の一人。東京帝国大学医学部に26年間にわたって在任。
※8 ボート・ショイベ(1853-1923) ドイツの医師。ベルツの勧めで明治10(1877)年,京都府療病院(京都府立医大)に教師として赴任。明治15年に帰国。
脚気問題をめぐってよく対比されるのが当時の海軍と陸軍であり、その代表として名が挙がるのが海軍省医務局長であった高木兼寛と陸軍軍医であった森鴎外である。高木は1882~84年(明治15~17)に海軍の遠洋航海訓練中の食事改善で脚気の予防に成功した。
一方、陸軍では白米食に原因があると感づきながらも、細菌感染説に執着する軍中枢部の圧力などにより食事改善に踏み切れず、日清・日露戦時中に戦死者をはるかに上回る多くの脚気死者が出た。
森は陸軍の白米食を擁護し、陸軍の脚気惨害を助長したとされ、高木は是、森は非という対比がなされるようになった。実際のところ責任は森の上司にあたる石黒忠悳にあったのだが、のちに文豪としても有名になる森に注目が集まり誤解されてしまったようだ。
1889年、オランダ領バタビア(ジャカルタ)では病理研究所長エイクマン(1858-1930 オランダの医学者)が鳥類白米病を発見した。餌に白米のみを与えていた鶏が、人間の脚気とよく似た症状をあらわすようになったが、糠を混ぜた米を与えた鶏はその病気を発症しなかった。つまり、脚気は白米摂取との関係が深く、白米に発病の原因となる毒素があるのではないか、と考えた。
鳥類の脚気様疾病に関する研究並に白米の食品としての価値 農商務省農事試験場 明治43[1910]
エイクマンによる鳥類の脚気様疾病の発見を受け、日本でも白米の問題について試験をおこなった。本書は、明治37年(1904)に着手された研究成果であり、研究者の中には後のビタミン発見の端緒を開く鈴木梅太郎(1874-1943)の名前もある。この研究の「結論」に、「糠或は麦等に含有せらるゝ成分にして白米中に欠乏する物質が脚気の発生と密接の関係を有すること明らかなり」と述べている。鈴木はこの後その成分の抽出に努めた。
1910年(明治43)鈴木梅太郎は特定物質の抽出に成功し、アベリ酸のちにオリザニンと名づけた。翌年、ロンドンのリスター研究所でフンクが同じく特定物質を純粋な形で抽出することに成功し、ビタミンと命名、これが世界的に認められ、ビタミン発見の第一号となった。
かくて脚気の原因が判明し、治療法が確立した。しかし、1923年(大正12)には2万7000人もの死者を出したほど日本には典型的な脚気が多発し、結核と並び二大国民病として恐れられた。近年は栄養改善に伴い脚気の発症は激減したが、今日でもなお散発的に報告がある。
【紹介している貴重図書】
・重訂肘後百一方 八巻 晋葛洪撰 梁陶弘景補 寳暦七年[1757] 浪華書林河内屋新次郎 (チ-89)
・唐王燾先生外臺秘要方 四十巻 唐王燾撰 明程衍道訂 日本山脇尚徳同撰按語 同治13[1874] (ケ-14)
・医家千字文註 惟宗時俊撰 発行年不明 (イ-137)
・牛山先生活套 三巻 香月牛山著 安永8[1779] (コ-47)
・脚気類方 源養徳輯 寳暦13[1763] (カ-20)
・脚気提要 西田尚絅輯 文化4[1807] (カ-59)
・叢桂亭医事小言 原南陽 嘉永7[1854]再刻 (ソ-28)
・脚気論 石黒忠悳著 明治11[1878] (カ-14)
・鳥類の脚気様疾病に関する研究並に白米の食品としての価値 農商務省農事試験場 明治43[1910]
【参考文献】(展示しているものもあります)
・脚気の歴史-ビタミン発見以前 / 山下政三 東京大学出版会 1983
・脚気の歴史-ビタミンの発見 / 山下政三 東京大学出版会 1995
・明治前日本医学史 第一巻 / 日本学士院編 日本学術振興会 1995
・鴎外森林太郎と脚気紛争 / 山下政三 日本評論社 2008 ※九大未所蔵
・鴎外と脚気 / 森千里 NTT出版 2013 ※九大未所蔵
【関連図書】(どうぞ手にとってご覧下さい。貸出可です。)
・森鴎外 もう一つの実像 / 白崎昭一郎 吉川弘文館 1998
・鴎外最大の悲劇 / 坂内正 新潮選書 2001
・坂の上の雲 / 司馬遼太郎 文芸春秋 1969-1972
・高木兼寛の医学 / 松田誠 東京慈恵会医科大学 2007
・宮沢賢治「玄米四合」のストイシズム / 廣瀬正明著 朝文社 2013
・病が語る日本史 / 酒井シヅ 講談社 2008
・ヴィタミン / 鈴木梅太郎 岩波書店 1886