1868年、大政奉還を機に明治維新が起き、日本は急激な近代化を遂げます。
多数の「お雇い外国人」が招かれ、欧米の近代的な制度が導入されました。
政治、経済、交通、電信…
社会のあらゆる分野で、近代的な仕組みが導入されていったのです。
こうした中で、教育制度もまた日本に導入されました。
学制が敷かれ、初めての幼稚園ができ、全国に小学校が建設され、明治の後半にかけて、就学率も向上しました。
幼児・児童向けの雑誌が誕生したのもこの時期です。
こうした状況の中で、今日につながる「折り紙」が形成されていきました。
1875年、日本で最初の幼稚園として、東京女子師範学校付属幼稚園(現在のお茶の水女子大学附属幼稚園)が設立されました。
1877年に制定された同幼稚園の規則では、保育科目が設定され、下記のように25種類の細かい活動内容が示されました。この中に、畳紙、つまり現在でいう折り紙が入っているのです。
五彩球ノ遊ヒ、三形物ノ理解、貝ノ遊ヒ、鎖ノ連結、形体ノ積ミ方、形体ノ置キ方、木箸ノ置キ方、環ノ置キ方、剪紙、剪紙貼付、針画、縫画、石盤図画、織紙、畳紙、木箸細工、粘土細工、木片ノ組ミ方、紙片ノ組ミ方、計数、博物理解、唱歌、説話、体操、遊戯
「五彩球ノ遊ヒ」「木箸ノ置キ方」に代表されるように、これらの活動は、フレーベルの恩物を基本にしていました。
[5-1]『幼稚園法二十遊嬉』より「摺紙」 |
さらに翌1878年には、『幼稚園法二十遊嬉』が刊行されました。
これは、同幼稚園初代監事の関信三による、恩物の概説書です。
ここで関は、それまで断続的に紹介されていた遊具や作業具を20種類選出し、その具体的な使用法を挿絵入りで分かりやすく紹介しまた。
その中で「摺紙」として折り紙が紹介されています。
画像[5-1]の通りです。机の上には、Das Faltenのモデルに登場するような折り目の紙が置かれていますが、少女が折っているのは江戸時代と同じ折り鶴です。
また、「二十遊嬉」を一枚の絵にまとめた「二十遊嬉之図」という絵でも、折り紙を折る子どもの姿が描かれています。
参考:二十遊嬉之図(複製)(お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ)
こうして、近代的な幼稚園制度が導入される中で、折り紙が恩物として導入されていきました。ただ、Das Faltenそのままというよりも、従来の折り紙のイメージと混ざる形で、幼児教育の場に溶け込んでいったようです。
[画像] | |
5-1 |
関信三 編(1878)『幼稚園法二十遊嬉』青山堂、十五丁裏 on 国立国会図書館デジタルコレクション (2021.03.08参照) |
明治時代には、教育制度の整備に従って、次第に就学率や識字率も向上してきました。
同時に、近代的な出版業やジャーナリズムも形成されつつありました。
こうした中で、子どもを対象にした少年少女雑誌が続々と出版され、その中に折り紙を扱うものが現れました。
鳴皐書院『小国民』は、少年雑誌の中でも初期のものです。
教訓的な物語や、科学系の読物が多数掲載され、人気を博しました。
それだけではなく、「考物」という謎解きクイズのようなコーナーや、「笑林」というお笑い投稿コーナーなどもあり、娯楽にも力を入れていました。
その中には、折り紙を紹介する記事もありました。
下記の文章は、第五年二十一号(1893.11)の「折紙變化船」からの抜粋です。
5の中央と線を折谷とすれば6の舟を得べし。これ古(いにしへ)より傳はる法にて面白からず。更に次の手續(てつづき)をふみて、變化(へんげ)するを知るべし。
[5-2] 「5」の再現 |
[5-3] 「6」の再現 |
[5-4] 「7」の再現 |
[5-5] 「8」の再現 |
「5」以降を再現したのが右の画像です。
「5」の段階で①の線に沿って折ると「6」になります。これは、現代では「にそうぶね(二艘舟)」として知られています。しかし記事では、これを「古より傳はる法にて面白からず」と言って、新しい折り方を紹介しています。
「5」で②の線に沿って折ると「7」になり、さらに少し折ると「8」ができます。これもまた、現在「だましぶね・ほかけぶね」として知られている作品です。そしてこの「8」の形は、Das Faltenの中(こちらの画像の作品10.)で紹介されていたものと同じです。
この「折紙變化船」は、「兵庫縣河井順之助氏寄送」の投稿記事だそうです。
ひょっとすると、彼は学校かどこかで新しい作品を知り、投稿したのかも知れません。
あるいは、「にそうぶね」を作っているうちに、独自に思い付いたのかも知れません。
今となっては、詳しいことは良く分かりません。
ただ確実なのは、折り紙の中には、伝統的な作品もあれば、新しい作品もあった、ということです。
1893年(明治26年)からの3年間、『小国民』では折り紙の記事が頻繁に掲載され、その多くは読者投稿によるものでした。折り紙が当時どのように楽しまれ、発展していったのかが分かる資料です。
[画像] | |
5-2~5 |
筆者撮影 |
[参考] | |
上田信道「小学生むけ雑誌のスタイルを開拓した「小国民」」 |
画像[5-6]は、明治41年に発行された『折紙図説』の一部です。
[5-6]『折紙図説』より「豚」「兜」 |
この書物は、学習院助教授の佐野正造によって編集されました。凡例には、下記のように書かれています。
一、本書は、折紙細工を實地に、練習會得せしめんが爲めに、編みたるものなり。
一、されば、本書は、幼稚園、小學校、師範學校、高等女學校 及び一般家庭の参考用にして可なりと信ず。
つまりこの書物は、教育用の実用書だったようです。
前編と後編に分かれており、前編では「遊戯的折方」、後編では「禮式的折方」がまとめられています。まさに、「遊戯折り紙」と「儀礼折り紙」の区別が意識されていた形です。
また、画像5-6では、左側に「兜」、右側に「豚」が載っています。
片やいかにも日本的な伝承作品、片やDas Faltenに載っている作品(こちらの画像の作品22.)です。
このように『折紙図説』では、新旧の作品が一冊の中に同居しているのです。
ここまで見てきたように、明治時代には、伝統的な作品だけでなく、新しい作品も生まれました。
それらの新しい作品は、教育制度が整う過程で西洋から流入したり、雑誌などの出版物を通して広まったりしながら、次第に伝統的な作品群の中へ溶け込んでいきました。
そうして、『折紙図説』に見られるように、一連の「折り紙」作品として受け入れられていきました。
つまり言い換えると、現在の「折り紙」は、伝統と近代、二つの源流を持っているとも言えるのです。
[画像] | |
5-6 |
佐野正造 編(1908)『折紙図説』良明堂[ほか]、pp. 24-25 on 国立国会図書館デジタルコレクション (2021.03.08参照) |
[5-7] 宮川春汀「折もの」 |
右の画像は、浮世絵師・挿絵画家の宮川春汀のシリーズ作品「小供風俗」の一枚、「折もの」です。
幼児・児童教育に取り入れられたことで、「折り紙は子どものものだ」という認識が定着するようになってきました。
『秘伝千羽鶴折形』に代表されるような洗練された手芸としての側面よりも、子どもの遊びとしての側面が強くなってきたのです。
この認識は、時代を超えて現在でも続いています。
日本で育った人なら、「折り紙」と聞くと「小さいころにやった」と思う人も多いでしょう。
懐かしい気持ちになる人もいるかもしれません。
しかし、第二次世界大戦後、折り紙は大きな進化を遂げます。
次ページからは、現在の折り紙の在り方を見ていきましょう。
[画像] | |
5-7 |
宮川春汀「小供風俗」より「折もの」 on 国立国会図書館デジタルコレクション (2021.03.08参照) |
「折り紙の歴史」ページの記述にあたっては、下記資料を参考にしています。
小学館 日本大百科事典より「折り紙」(執筆者 菩提寺悦郎)
国立国会図書館リサーチ・ナビ 第151回常設展示 本の中の「おりがみ」 (2021.03.08参照)
日本折紙学会 岡村昌夫「折り紙の歴史」 (2021.03.08参照)
五十嵐 裕子「折り紙の歴史と保育教材としての折り紙に関する一考察」(浦和大学『浦和論叢』46,pp45-68) (2021.03.08参照)