戦後の三菱鉛筆の歴史において、「uni」という鉛筆の存在は極めて重要です。
えんじ色の——正確を期するならば「ユニ色」の——ボディは、読者の皆さんにも馴染み深いところではないでしょうか。
さて、この鉛筆より前から三菱が出していた鉛筆があります。「No.9000」です。
この写真を、よーく覚えておいてください。
ところで、文房具大国・ドイツには、ファーバーカステルという会社があります。
こちらの会社は鉛筆も製造しておりまして、その主力商品が「カステル9000番」です。
おや……?
緑だし、番号同じだし…。
この疑惑について、『鉛筆とともに80年』は以下のように答えています。
「いったい、わが国の鉛筆は、あらゆる点において伝統的にドイツの鉛筆を踏襲して発達したもので、No.9000といえども、その例外ではなかった。そもそも、このナンバーからしてキャステルの代表製品にならったもので、かりに模倣と嘲けられれば、観念するよりほかないのだった。」 (263頁)
この文章力の持ち主でさえも、擁護はできなかった様子。
微妙な表現ではありますが、カステル9000番を「踏襲」したことは認めています。
ただ、三菱鉛筆社の名誉のために申し上げておきますと、ライバルたるトンボ鉛筆社も、緑の鉛筆を売ってました。
その名も、「No.8800」。(写真は、実家の屋根裏で偶然発見されたものでして、文字が不鮮明ですが……)
「最高峰エベレストの標高が一般に8800メートルといわれていたことから、『No.8800』に鉛筆の最高峰の意味を託した」 トンボ鉛筆100周年記念事業委員会編「トンボ鉛筆100年史」(2013年3月)
とのことですが…
見た目はかなーりカステルです。番号も近いし。
正面から認めてるだけ、三菱鉛筆の方が潔いかも。
さて三菱鉛筆社は、誰から「模倣と嘲られ」ることを心配していたかと言いますと、当のファーバーカステル社自身です。
1953年、技術部長の数原洋二が、海外の鉛筆事情を知るために欧米を視察。その中で、ドイツにも向かったのです。
「彼はこのとき、当時三菱鉛筆の代表的製品であったNo.9000を携えていたが、彼らの冷淡な視線を浴びせられるにちがいないことを思えば、この鉛筆を出して示すのに躊躇せざるを得なかった。」 (262頁)
ああ、なんと悲痛なことでしょうか…。
洋二の父・数原三郎は、戦前の厳しい時代から、粗造品の乱売防止に尽力し、鉛筆の軸に使われるインセンスシダーの安定供給を確保しようと奮闘しました。
3つの工場を失った後、廃墟からの再起を誓い、三郎は社長に就任。
奮闘する父の背中を見ていた洋二にとって、No.9000は親友であり、戦友であり、家族であったことでしょう。
そんなNo.9000を、自信たっぷりに見せたいはずのNo.9000を、取り出すときに躊躇した。
洋二の心境は、察するに余りあります。
結局カステル社は、大変丁寧に接してくれました。
とはいえ、悔しさは残ります。
「名実ともに日本の鉛筆を海外に知らしめるためには、輸入品の影響から脱したオリジナリティのある高級鉛筆を開発しなければならぬ」 (264頁)
洋二は、決意を新たにしました。
そして、三菱鉛筆史上最高峰、uniの開発が始まるのです。
………いい話です。
しかし、思い出していただきたい。
文房具の歴史は、得てして「戦い」の歴史でもあります。
三菱鉛筆が手工業の他社を下したように、そして、戦時下をどうにか生き抜いてきたように。
Uniの開発も例に漏れず、そこには熱い「戦い」がありました。
ここに、もう一人の登場人物(法人)を紹介する必要があります。
日本の鉛筆を担うもう一つの巨頭、トンボ鉛筆社です 。
※ 本項目の執筆に際しては、前掲・「トンボ鉛筆100年史」を参照しました。
トンボ鉛筆の前身となる小川春之助商店が開業したのは、1913年。
時代のトレンドを取り入れつつ、数々のヒット商品を世に送り出してゆきます。
第一次世界大戦時には、国内需要を重視。
戦後不況や関東大震災を乗り切り、1927年には、念願の鉛筆一貫生産工場、TOSHIMA FACTORYが竣工します。
翌年に発売された「TOMBOW DRAWING PENCILS」は、6Hから6Bまでの14硬度を揃える、最高級の製図用鉛筆でした。
トレードマークのトンボ印が初めて刻印されたのも、この鉛筆です。
ここに始まった「国内最高の芯づくり」は、(先程イジった)「No.8800」に、いったん結実します。
1939年、小川春之助商店は法人化。
営業部門を「トンボ鉛筆商事株式会社」とし、製造部門を「株式会社トンボ鉛筆製作所」とします(以下、社名は「トンボ鉛筆」と表記します)。
しかし、トンボ鉛筆にも、戦争の足音は迫っていました。
開戦初年の1941年には、準軍需工場の指定を受け、製品の3分の2を軍関係に納入。
1942年には、真崎大和鉛筆(三菱鉛筆)、日本鉛筆と協同で「大東亜鉛筆」を設立し、朝鮮に工場を建設しました。
どうにか生き抜こうとしてきたトンボ鉛筆ですが、1945年3月10日の東京大空襲により、トンボ鉛筆商事株式会社本社が焼失。続く4月13日の空襲で、株式会社トンボ鉛筆製作所の工場も、一棟の倉庫を残して焼失しました。
1945年8月15日、終戦。
※ 本項目の執筆に際しても、前掲・「トンボ鉛筆100年史」を参照しました。
戦後、大きな傷を負いながらも、トンボ鉛筆はいち早く事業再建へと動き出します。
製造現場、製造設備、最後に本社の順番で再建。
1950年には工事が完成し、再スタートへと歩み出します。
1945年11月には、高級鉛筆8900を、「写真修正鉛筆」として販売。
現在でも愛される、ロングセラー商品です。
しかし、終戦から時が経つにつれ、同業他社も復旧していきます。
この戦いに対してトンボ鉛筆が取った戦略は、「最高の質 トンボ鉛筆」という、昭和初期に掲げた事業理念への回帰でした。
しかも、ただ漫然と「質を重視する」にとどまるものではありません。
トンボ鉛筆が行ったのは、今で言うところの産学連携。
1949年、東京大学の木村健二郎教授、赤松秀雄助教授(のちに教授)、永井彰一郎教授らと協同で、「鉛筆の芯を科学する」と題したプロジェクトを立ち上げたのです。
参加した研究者にとっても、以後の業績の礎となったこのプロジェクト。研究成果は学会で発表され、日本の鉛筆の品質向上に寄与しました。
トンボ鉛筆の社史(前掲「トンボ鉛筆100年史」)も、「いわば、産学協同の理想郷であった」、と誇らしげです。
そして、1952年8月。
「鉛筆の芯を科学する」プロジェクト発足から3年目のこの年に、「品質・価格ともに最高級を誇る鉛筆」 が完成します。
(画像は前掲・「トンボ鉛筆100年史」32頁)
「均一、同質」を意味するhomogeneousから取って「HOMO」と名付けられたこの鉛筆は、1本30円の最高級鉛筆として売り出されました(当時の一般的な国産鉛筆の価格は、1本5円)。
硬度は、9Hから6Bまでの17種類。専門家のみならず、小中学生にも好評を博していました。
鋭い感性で時代を掴み、成長してきたトンボ鉛筆。
焼け残った1棟の倉庫から復活を遂げ、ついにその努力を結実させたのです。
……さて、この状況を、三菱鉛筆の側はどう捉えていたんでしょうか。
『鉛筆とともに80年』の、ドイツでの経験を語った後の記述を見てみましょう。
「昭和二十七年(一九五二)、たまたまトンボ鉛筆の発売した一本三十円の『ホモ』が東京都内で比較的よく売れていたこと、鉛筆の貿易自由化が遠からず行なわれるに違いないことなどから、その対抗策として三菱鉛筆では一本二十円のNo.9000を凌ぐ高級鉛筆の開発が、販売面でもさし迫った問題として採り上げられるようになった。」(264頁)
も、燃えておる……!
特に味わい深いのは、「たまたま」、「比較的」よく売れていた、という箇所でしょう。
その一方で、HOMOのことを軽視していたわけではありません。
例えば三菱鉛筆は、人々のニーズを以下のように分析しています。
「人びとが現在求めているものは、ただ書けさえすればいい鉛筆ではなくて、書き味の良い鉛筆なのであった。(略)なにより、ホモの売れゆきが、その辺の事情を能弁に物語っていた。」 (264-265頁)
HOMOが「書き味の良い鉛筆」であることは、十分認めていたものと推察できます。
先ほどの文章にしても、他の要因も考慮しつつ、HOMOを「さし迫った」脅威として捉えていました。
「ホモを凌ぎ、さらに輸入品をも凌ぐ、高い品質の鉛筆を製造、販売することが急がれた。」 (265頁)
こうして三菱鉛筆は、史上最高峰の高級鉛筆、uniの開発へと向かってゆくのです。
さて、前提として考えておかねばならないことがあります。
「書き味が滑らかな鉛筆」とは、どういうものでしょうか。
これを考える際には、鉛筆の仕組みに想いを巡らせなければなりません。
紙の上には、目に見えない凹凸があります。
この上に黒鉛をこすりつけ、凹凸の中に黒鉛の粉を残す、というのが、大雑把に言った場合の鉛筆の仕組みです。
この黒鉛を構成する粒子が小さくなりますと、凹凸の中に黒鉛が残りやすくなりますので、書き味が滑らかになる………ものと思われます。仕組みについては曖昧です。
ただ、黒鉛の粒子を小さくしなければならないことは確かなようで、三菱鉛筆も頑張りました。
というか、元々「粘土の処理法についての研究」が通産省から評価されるほど頑張っていましたので、この点は解決できました。
芯を作る際に必要なロウについても、最新の設備を導入。
『鉛筆とともに80年』の表現を借りれば、以下のような体制でした。
「今や、世界一の鉛筆を作るために、すべてのエネルギーが結集されていた。情熱を込めてしかし冷静に――とぎすまされた神経が工場にはりつめた。三菱鉛筆の最新の技術と七十数年の経験が、いまようやく、一本の鉛筆にみのろうとしているのだった。数原洋二は、五年前、欧米の鉛筆工業視察に携えていったNo.9000を、かの地で人々に示すのが躊われたことを思い出した。オリジナリティのある高級鉛筆の開発を!彼はこのときそう決意したのだった。」 (266頁)
テンションが上がりすぎて、ついにエクスクラメーションマーク(!)まで使い始めました。
さて、その一方で、uniの開発は大きな賭けでもありました。
ライバルのHOMOは、1本30円。
1本5円の鉛筆もあった当時において、uniの価格は1本50円と強気でした。
単価が高いゆえに、uniが売れなくって在庫が増えると、相当な負担にもなります。
また、消費者の反感を買っちゃうと、他の鉛筆も売れなくなるかもしれません。
「ユニの販売には、ある程度、社運がかかっていた。」 (267頁)
だからこそ、uniに掛ける思いは、並大抵のものではありませんでした。
名前のuniは、英語では「ただ一つの」、フランス語では「滑らかな」を意味する単語。
軸に採用された、茶色ともワインレッドともつかない独特の色は、工業デザイナー・秋岡芳夫が世界中の鉛筆を取り寄せ、そのどれとも色が重ならないように選んだものでした 。
目指すところは、「世界で最高の滑らかさを持ったただ一つの鉛筆」 。
そしてuniは、1958年の発売と同時に爆発的な売り上げを記録。
その後も売上は記録的な伸びを見せ、わずか6年で、当初の10倍以上の伸び率を記録しました。
uniの発売から、71年。
2023年現在の、三菱鉛筆社のロゴを見てみましょう。
(三菱鉛筆HPより)
誇らしげに掲げられた、「uni」の文字。
最高級鉛筆にかけられた思いは、現在も脈々と受け継がれているのです。
三つの鱗の、三菱鉛筆マーク。
その由来は、「三菱鉛筆、始まる」でお話ししたとおり、逓信省が採用した三種類の鉛筆と眞崎家の家紋です。
従って、旧財閥の方の三菱、三菱電機とか三菱自動車とかの方の三菱とは、全くの無関係。
マークの由来も違いますし、マークの商標登録も、三菱鉛筆の方が15年先です。
……なのですが、三菱という名前とマークのせいで、三菱鉛筆は危機に瀕したことがあります。
それが、財閥解体。
GHQからの圧力により、三菱マークの使用を中止させられそうになったのです。
これに対する『鉛筆とともに80年』の筆致には、怒りがこもっています。
終戦後、G・H・Qの財閥解体政策の巻き添えをくい、当時の財閥解体課長ウェルシー博士の政策に圧迫されて、三菱商標も抹殺されようとしたことがあった。博士は極力、自発的抹殺に持ち込もうと働いたのだが、ときの三菱鉛筆社長数原三郎はその不合理をとなえ、頑として博士の圧迫をはね続けた。この結果、ウェルシー博士もついに三菱鉛筆の正当なる主張を受け入れ、法律の改正によって三菱商標の確立を認めざるを得なかった。(33-34頁)
現在でも三菱鉛筆社の公式サイトには、「商標とブランド」という項目が立てられ、マークの由来が記されています。