アメリカやドイツからシャープペンシルが輸入されると、1879年ごろから、日本でも生産がなされるようになりました。
しかし、当時の製品の軸はセルロイドで、中身はブリキ。
錆びやすくて壊れやすく、実用には向きませんでした。
この状況を変えたのが、早川徳次。
のちの、SHARPの創業者です。
金属のペン軸内部に螺旋状の溝を掘り、後部を回転させると芯が出てくる、画期的な仕組み。
早川式繰出鉛筆と名付けられたこのペンは、飛ぶように売れました。
画像は、まさにその早川式繰出鉛筆………
……をかたどった、0.5ミリのシャープペンシルです。
その後、各社がシャープペンシルを生産。
技術は順調に成長し、1923年ごろには海外への輸出を行うほどになりました。
1937年ごろにはシャープペンシル産業はピークを迎え、製造工場は東京都内だけで99カ所、国内では数百カ所におよび、30数カ国への輸出も行うようになりました。
ところが、時代は戦争へと突き進んでいきます。
日中戦争の勃発による排日運動激化に伴い、海外向けの輸出が減少。
国内においても物資の統制が強化され、原材料の入手が困難になりました。
1939年には統制が極度に厳しくなり、シャープペンシルの価格にも上限が設定されます。
1940年、銅使用制限規則改正の施行により、真鍮などの主要資材が使用禁止に。
これは痛い!
『シャープペンシルのあゆみ』の座談会でも、真鍮を使っている疑いをかけられて留置所に入れられたり、逮捕されたり、シャープペンシルが作れないので飛行機のタンクを作ってみたり、オイルの濾過器を作ってみたりと、諸々の苦労が語られています。(89頁)
少数の資材によってシャープペンシルの生産を続けた工場もありましたが、1943年に企業整備令が発令され、全工場が企業の転廃業を行いました。
戦争の時代を以下のように結ぶ『シャープペンシルのあゆみ』は、悔しげです。
「ここにわが国におけるシャープペンシル工業は一時挫折するに止むなきに至った。」(16頁)
早川式繰出鉛筆については、上記の本も参照しました。その成立に日本人が大きな役割を果たした製品を特集する、『ニッポンの大発明』です。
こちらの本も、シャープペンシル以外の項目にも興味をそそられる名著です。
一例を挙げ出すとキリがないのですが、例えば水性サインペン。
ぺんてるのサインペンは、実は宇宙に行ったことがあるってご存知でしたか?
あるいは、変わり種で言えば胃カメラ。
その背景には、研究者たちの血と汗と涙がありました。
こちらも中央図書館に入っていますので、興味があれば是非!