戦争が終わっても、混乱は続きます。
設備は焼失していますし、シャープペンシルの製造もしばらく停止していましたので、技術も失われていました。
そんなシャープペンシル業界を活気づけたのが、0.5ミリ芯の登場でした。
座談会における、新津貢さんの回想を引用します。
「いやあー、0.5ミリしんの登場は業界人として本当に驚いた。何しろ1.15ミリしんから0.9ミリしんになって細いしんができたと喜んでいたのに比べれば、これは驚天動地の出来事だった。」(90頁)
これを成し遂げたのは、大日本文具(現在のぺんてる)。
開発担当者の名は、関谷孝でした。
関谷さんが大日本文具に入社したのは、昭和31年。
新潟から上京して、運転手として採用されました。
しかし配属されたのは、なんと研究室。
これはあまりの無茶振りです。
関谷さんも黙ってはいません。
「私は運転手として入社したのだから研究室には行けない」(90頁)
至極ごもっとも。ど正論です。
しかし副社長は、衝撃の一言を放ちます。
「人間やる気があれば、何でもできる」(90頁)
無茶だって!!
しかし、関谷さんは頑張ります。
めっちゃ頑張ります。
とにかく頑張ります。
「来る日も来る日も弁当箱に潰した粘土を溶かして入れ、黒鉛を混ぜて研究しており、週に1、2日位しか帰宅せず、研究室にゴザを敷いて、寒い日には電気こてをあてて眠ったりしていた。」(91頁)
ゆとりの森のぬるま湯で育ってきた筆者には、こんな熱湯は耐えられそうにありません。
毎日研究に打ち込み、ついに芯が完成。
副社長の元に持って行きましたが、書いてみると、新聞紙がビリビリに破けてしまいます。
「こんなのがしん〔芯〕か」(91頁)
副社長に怒鳴られてしまった関谷さん。
「弁当を食べようとしたが、悔しくて弁当が喉を通らないんです。今ごろ本当なら川口・赤羽間のバスの運転をしていたのに」(91頁)
そうだそうだ!
ただ、これには続きがあります。ちょっと先まで読んでみましょう。
「弁当を食べようとしたが、悔しくて弁当が喉を通らないんです。今ごろ本当なら川口・赤羽間のバスの運転をしていたのにと思い、ストーブの前にしゃがみ込んでいたら、ご飯粒がストーブにくっついて、焦げてしまったものを無意識に指に取って見ると、手から転がり落ちてしまったので、これは、炭をつくる原理と同じだと気がついて、粘土はすべて捨ててしまったわけです。」(91頁)
なんと、悔しさをきっかけにして大発見。強すぎる!
関谷さんは、アメ横で買ってきたものを手当たり次第に焼いて行きます。
ヤギの骨から牛の骨、電信柱に至るまで。
そしてある日、噛んでいたチューンガムをるつぼで40分焼いたところ、るつぼの形の黒い物体ができることを発見。
これこそが、後のハイポリマー芯の原型です。
しかし、粘土と異なり、チューインガムは水に溶けません。
どんな溶剤がいいのか、関谷さんは色々と試します。
とっても試します。
「いろいろな溶剤を買ってきたんですが、溶剤の名前が英語の略語で書いてあるので、何だかわけも分からずに溶剤に勝手に関谷の1番、2番、3番と番号をつけて鼻から匂で覚えていったのですが、」(92頁)
溶剤って、シンナーとかですよね…?なんだか嫌な予感がします。
「その内、目が回ってきて、いわゆる中毒症状になってしまったわけです。」(92頁)
「わけです」、じゃないですよ!
もっと自分を大切にしてくださいよ!
ただ、関谷さんの苦労はこれでは終わりません。
「いろいろ混ぜたものをビーカーに移しかえても鼻が利かなくなっていたので、分からなくなり、目で判断をするようにしたんですが、やがて目も悪くなり、副社長に紹介された病院へ行くと、すぐ手術で入院だといわれる始末でした。」
もう踏んだり蹴ったり……。
しかし、関谷さんの努力の甲斐あって、ポリマー芯の開発に成功。
粘土芯に比べて強度が3倍、黒さは2倍というシロモノでした。
「退院したら、今度こそバスの運転手になれる」(92頁)
いやもう、本当にお疲れさまでした!
……と、労いたいところなのですが、なんとこれでは終わりません。
「退院したら、今度こそバスの運転手になれると喜んでいたら、0.7ミリしん、0.5ミリしんを開発しろということで、バスの運転手になることは遂に断念しました。」(92頁)
まだまだ続く関谷さんの旅路。優秀すぎた故の悲劇ですね…。
そして、本当に0.7ミリ芯や0.5ミリ芯を開発できちゃったところがすごい。
口うるさい設計部の方々に試用してもらい、0.5ミリ芯がついに完成。
最初の注文は、なんとアメリカから来ました。
そして、0.3ミリ芯が当たり前に使われる現在。
ぺんてるは、0.2ミリの芯を「普通に」売っています。