真崎仁六は1848年、現在の佐賀県佐賀市巨勢町に生まれました。
18歳の時に、藩の推薦で長崎へ。
20歳で上京し、28歳のときには、アメリカ・フィラデルフィアの万国博覧会にも出張しています。
仁六の一生を決定づけたのは、1878年のパリ万国博覧会。
『鉛筆とともに80年』の描写があまりに素敵だったので、以下に引用します。
「博覧会場の一隅に展示された各種の鉛筆が、彼の心をひとつかみにした。これはまた、なんと便利な筆記道具であろう。セーヌ河畔にたたずんだ仁六は『この鉛筆を日本でも製造してやるぞ』と固く心に期したのであった。このとき彼は二十九歳、青雲の志を抱いて長崎に留学してから、はや、十年余の歳月が流れていた。」 (13頁)
まるで見てきたかのような言い草です。
ポイントは、「セーヌ河畔にたたずんだ」という情景描写でしょう。
なぜだろう、めちゃくちゃエモーショナルです。
他にも「青雲」って言われると某線香のCMが流れちゃうな、とか、いや、やっぱり某高校をイメージする、とか、色々とコメントをしたい一文なのですが、ここで字数を使うと、日本における歴史に限定した意味がなくなります。
以下の記述でも、面白い(そしてからかいたくなる)描写は適宜直接引用することにしつつ、先を急ぐことにしましょう。
さて、日本に帰った仁六ですが、パリから持ち帰った鉛筆の知識といえば、「鉛筆の芯は黒鉛と粘土の混合物らしい」 ということだけ。
どうにか鉛筆を製造してやろうと、仁六は頑張ります。
仕事終わりにはいつも黒鉛と粘土を入れた乳鉢に向き合い、黒鉛と粘土の産地に足を運び、足掛け5年。
ついに仁六は、鉛筆作りに最適な黒鉛と粘土を探し当てました。
ようやく芯ができた、と安心したのも束の間。
ある日仁六は、自分の家の庭先で、木の空き箱を壊し始めました。
何も仁六がおかしくなっちゃったわけではありません。
彼が解決しようとしていたのは、鉛筆の軸の問題なのです。
削りやすい材質で、しかも曲がりにくい木材…。
国産材に適当なものを見つけられなかった仁六は、石油缶の梱包に用いられていた外国産木材を、鉛筆に使ってみようとしたのです。
色々の試行錯誤の末、彼がたどり着いたのは北海道産のアララギでした。
この木材は、その後長らく鉛筆の材料として珍重されることになります。
1887年、ついに仁六は独立。
現在の東京都新宿区に「真崎鉛筆製造所」を設立し、鉛筆の製造に踏み出します。
しかし、順風満帆というわけではありません。
創業時の状況について、1914年の雑誌の記事は以下のように書いています。
これまたレトリック山盛りです。
「一面の竹藪にて、白昼狐狸出没し、水車の軒は傾き、壁は落ち、雨は漏り、風は吹き込み、止むを得ず冬期の如きは箪笥を置きて凛烈たる寒風を防ぐような悲惨なる境遇であった」 (「耐忍強き素人鉛筆製造に成功す」実業之日本17巻21号(1914年)60頁:漢字・仮名遣いは適宜改めた)
無駄にリズミカル。
境遇の悲惨さは、「水車の軒は傾き」あたりで既に伝わっているのに、これでもかと畳み掛けてきます。
声に出して読みたい日本語です。
これを引用する『鉛筆とともに80年』の方も、負けていません。
当時の工場周辺で狐に化かされた人がいる話などを、情熱的に書き綴っています 。
こうして鉛筆の製造に目処がついた後も、真崎鉛筆は販路の拡大に苦慮します。
分からず屋の問屋 、厳しい逓信省(現在の総務省など) 、これに強気に出る仁六 等、見どころたっぷりのドラマがあるのですが、詳しくは『鉛筆とともに80年』をご覧ください。
諸々の苦難の末、逓信省は真崎鉛筆の三種の鉛筆を採用します。
この時に商標登録されたのが、真崎家の家紋でもある三菱マークでした 。
(以後、社名は三菱鉛筆と表記します。なお、三菱マークについては、次頁のコラム「『非財閥』三菱鉛筆?」もご覧ください。)
その後、第一次世界大戦勃発による需要拡大、その後の不況の煽り、関東大震災の被害などを受けながらも、三菱鉛筆は時代を生き抜いてゆきます。
1925年には、色鉛筆製造の技術などを有していた大和鉛筆と合併。
争議や不況に苦しみながらも、加工技術の改良や販売ルートの確立に取り組んでゆきます。
その中では学校を訪問して回ったりもしたのですが、以下のような次第でした。
「松がとれてから、春の新学期が始まるまでの三ヶ月間は、学用品の売り込みが最も激しい期間だが、北海道は、まだ深い雪の中に埋もれている。いちめん、銀色の原野を、ストーブを乗せた汽車がのろのろと走った。雪まじりの風が吹き込んでくる駅の待合室には、寒さに凍えた老婆が、すっぽりとかぶった角巻きの隙間から、憂わし気な表情を見せている。選定を受けるために販売所は三菱鉛筆をたずさえて学校を訪れて廻るが、吹雪に閉じ込められて一週間も二週間も立ち往生してしまう、といった苦難にぶつかることも珍しくない。冬の商売は辛く、厳しかった。」 (『鉛筆とともに80年』19−23頁)
好きなタイプの散文詩です。
まず書き出しがいい。北海道の情景が目の前に浮かんできます。
「銀色の原野を、ストーブを乗せた汽車がのろのろを走った。」とか、とてもオシャレ。
締めの一言にもキレがあって、サラリーマンの悲哀が伝わってきます。
「老婆の話いるか?」とか、
「これ、散文詩じゃなくって社史だったよね?」とか、
野暮なことを言いたくなりますけれども。
そんな苦労をしつつ、三菱鉛筆は発展。そして時代は、第二次世界大戦へと向かって行きます。
戦時下、三菱鉛筆は、軍との関係を強化します。
『鉛筆とともに80年』の記述です。
「やつぎばやに強化される戦時経済体制のなかで、鉛筆工業のような平和産業が生きのびていくためには、軍需と関係を持つことはやむを得ざる処置であったばかりでなく、むしろ進んでその方向に姿勢を向けていくことが必要だった。国中のなにもかもが、戦争という大きな目的のために、とうとうと音たてて流れていた時代であった。」 (183頁)
軍需産業に従事すれば、徴用から逃れることができました。
一方、「平和産業」 のままでは、いつ「企業整備」の名の下に縮小・転業させられるとも知れなかったのです。
そして三菱鉛筆は、関東海軍監督官事務所と接触を保ち、1942年には海軍の軍需品生産指定工場になりました。
同じ年、子安工場には、「日本飛行機子安航空機製作所」が誕生。木製の練習機の本体や尾翼の製作を行いました。
しかし、この航空機製作所、利益を上げることはほとんどありません。
経理面においては「はなはだ厄介なお荷物的存在」 でした。
戦時下の三菱鉛筆が抱えた困難のうち、特に大きかったのが資材不足。
本当に深刻な問題であったに違いないのですが、そこは『鉛筆とともに80年』。
ちょっと面白いエピソードを混ぜてきます。
例えば、あるとき三菱鉛筆は、やっとの思いで馬糞紙を手に入れます。
「馬糞紙」とはいうものの、馬糞が入っているわけではありません。
一般には「ボール紙」と言われる、藁が見え隠れする普通の紙です。
『鉛筆とともに80年』を見てみましょう。
「大井・鈴ヶ森のガード下の倉庫に、やっとの思いで手に入れた馬糞紙を積み上げておいた。この馬糞紙で作った箱に鉛筆を納める予定だった。」 (200頁)
ガード下の倉庫…?
嫌な予感がして参りました。
「雨が降った。」 (200頁)
そら言わんこっちゃない!
「心配して出かけてみると、案の定、ひどい雨漏りのため、びしょびしょに濡れていた。水に濡れた馬糞紙ほど不様なものはない。まさしく名前の示す通りの惨状を呈して、今に異臭まで漂ってきそうだった。」(200頁)
さすがの筆力。
ちょっと面白いです。
ただ、言うまでもなく当時の皆さんにとっては深刻な問題でした。
『鉛筆とともに80年』の記述です。
「今でこそ笑えるが、その当時は真剣そのもので、資材の入手には一喜一憂した。まったく、何もなかった。あらゆる物資がこの世の中から失せてしまっていた。だが、まだ戦争は終わらなかった。戦争は人びとにとってまるで永久に続く冬のように、果てしなく荒涼として行く手の方角に横たわっていた。」 (200-201頁)
戦争は激しさを増し、三菱鉛筆の大井工場、神奈川工場、子安工場も焼失。
犠牲者を3名出しつつ、終戦を迎えます。
さて、本稿執筆にあたって何よりも参照したのが、三菱鉛筆社の社史、『鉛筆とともに80年』です。
この本、ずーーっとテンションがプロジェクトX。
中島みゆき「地上の星」が、頭の中で流れ続けます。
例えば、創業者・眞崎仁六が、ついに独立するとき。
さて、いよいよ、機は熟した。真崎仁六はここに独立を企てた。このとき、四十歳にあと二年をあますばかり、パリ万国博覧会におもむき鉛筆製造を心に期してから、はやくも十年の歳月が流れていた。芯に五年、軸と機械に五年、この十年間いっときとして彼の脳裡から鉛筆が去ることはなかったが、今やその苦心の研究は遂に実を結ぼうとしていた。(18頁)
風の中のス〜バル〜〜
他に、こちらは本文でもご紹介しますが、最高級鉛筆・uniの開発に向かう社内の様子を描写して。
今や、世界一の鉛筆を作るために、すべてのエネルギーが結集されていた。情熱を込めてしかし冷静に――とぎすまされた神経が工場にはりつめた。三菱鉛筆の最新の技術と七十数年の経験が、いまようやく、一本の鉛筆にみのろうとしているのだった。数原洋二は、五年前、欧米の鉛筆工業視察に携えていったNo.9000を、かの地で人々に示すのが躊われたことを思い出した。オリジナリティのある高級鉛筆の開発を!彼はこのときそう決意したのだった。(266頁)
砂の中のぎ〜んが〜〜
「地上の星」をBGMに、ナレーションが頭の中で再生されます。
他にも、中々に口ぎたn……歯に絹着せぬ物言いが散りばめられており、読んでいて爽快です。
上記の『鉛筆とともに80年』、中央図書館にも蔵書があります。
しかし、本書の面白さに照らしますと、人気図書になることは必定。
読みたいのに読めない、という状況にもなりかねません。
そこでおすすめしたいのが、国立国会図書館デジタルコレクションです。
国立国会図書館が所蔵する資料のうち、36万点をインターネット公開するこちらのサービス。
何と、『鉛筆とともに80年』も収録されています!
ご利用には、国立国会図書館への利用者登録が必要です。
来館・郵送のいずれでも行えますので、詳しくはこちらをご参照ください。