①江戸時代まで…麻布や葛布の端切れが経血処理に使われていたのではないかという説が有力です。また、平安時代に書かれた現存する日本最古の医術書『医心方』では、「月帯(けがれぬの)」という布製の経血処理用品が紹介されています。
②江戸時代以降…布に加えて紙が経血処理に使われるようになりました。
③明治時代から大正時代…婦人雑誌の登場(月経についての記事が多く掲載されている)。そのなかの『婦人衛生雑誌』(上流階級の女性向けの雑誌)は、日本初の女医である荻野吟子や、官僚の妻たちによって創刊されました。当時の国家目標は「富国強兵」ですから、健康な母体に強健な兵士や労働者を産んでもらうために、家庭生活の知恵だけでなく、月経に関する記事がたびたび掲載されていました。複数の医師たちは月経時の禁止事項を説きました。自転車、乗馬、体操、舞踊、機織り、ミシン、長時間の直立、長時間の歩行などなど。農家のお嫁さん、女工さん、教員は当然休むことはできないのですが…。また月経時に安らかに過ごすため、社交的な場に出ること、芝居や寄席見物、なんと読書も禁じられました。
また、医師たちは、綿製の丁字帯を用いる際、それを作る布や併用して使い分ける紙は、すべからく清潔でなければならないと説いています。直接膣内に紙や布をつめるいわゆるタンポン式の処理法は一般に好ましくなく、「子宮病」の原因になるとも書かれていました。しかしタンポン式を使う場合には、紙でなく清潔な脱脂綿やガーゼならまだよいと勧めている意見もありました。
のちに脱脂綿が「日本薬局方」に認定され、普及し、徐々に紙や布に代わり経血処理がなされるようになりました。1901年の木下正中医師による講演では、月経時に清潔な脱脂綿を用いる女性が増えてきましたが、たいていが膣内に挿入されているため、取り出せなくなって病気になる可能性があるとし、タンポン式でなくナプキン式の使用を勧めました。医師たちはタンポンに代わり「月経帯」も勧めました。これは病気を予防するほか、「自涜を防ぐ(膣に紙や布をつめることにより、自分自身を穢すこと)」とされていました。これに対して大阪府医師会初代会長の緒方正清氏は、月経帯の使用にも注意を促しています。いわく、月経帯の方が以前紹介した丁字帯よりも体に密着するためです。
月経時に安静が必要ならば労働階級の女性の方に月経の差し障りが出ますが、彼女たちは重視されませんでした。田口亜紗氏によると、当時は「上流階級:下層階級=優種:劣種」という考えが根付いており、上流階級の女性たちが健全で優秀な子供を産む母体とする階級意識が強く、上流階級でない女性たちは優秀な母体候補と見なされていなかったのです。母体を選ばず「産めよ増やせよ」と言われるのは昭和の戦時中からでした。
細井和喜蔵の『女工哀史』によれば、女工さんたちは就業時間中、小用の回数も厳しく制限されていたために、膣につめた脱脂綿を交換することが現実的ではありませんでした。
④大正時代…高級月経帯「ビクトリヤ」「安全帯」「プロテクター」「婦人保護帯」「ローヤル月経帯」「ファインダー腹巻付月経帯」「カチューシャバンド」「エンゼル月経帯」「婦人サルマタ」といった月経帯が薬局等で売られていました。腰に巻いたベルトに吸収帯をつるすベルト式がメインストリームでした。
⑤昭和時代…「フレンド月経帯」「月経帯メトロン」「ノーブルバンド」「スイタニヤ月経帯」が量産されるようになりました。しかし中にはあえてゴムを使わない布製の月経帯もありました。ゴムの月経帯には、漏れない・経血が匂わないという長所がありましたが、蒸れる・かぶれる・ゴム臭いという短所もありました。
また、女性たちの洋装化に伴い、ベルト式からズロース型(ショーツ型)が一般的になってきます。経血処理を目的として開発された、現在の形に近いタンポンは、1938年に合資会社桜ヶ丘研究所(現エーザイ株式会社)から発売された「さんぽん」でした。それまでのタンポン製品は、脱脂綿の球に近いものだったのです。桜ヶ丘研究所からは、さんぽん発売と同じ年に「シャンポン」という和製紙のタンポンも発売されています。こうした既製品のタンポンの発売は、医師たちの猛反発を招き、戦争による原料不足にも見舞われました。日中戦争が始まると、中国から綿花が買えず、脱脂綿は軍隊使用が優先されました。太平洋戦争時には物資統制令によって、女性たちは旧来の手製丁字帯をつけたり、ぼろ布を直接膣に突っ込むなどの方法をとるようになりました。
月経禁忌とは、月経中の女性、ひいては女性そのものを禁忌とみなすことです。そもそもタブーという言葉の語源がポリネシア語で月経を指す「tabu/tapu」なのです。結構直接的なんですね。月経禁忌は日本でも見られる意識です。民俗学者の大森元吉氏は世界各地の月経禁忌について報告を行いました。コスタリカでは月経中の女性は危険であるとみなされており、その女性が触ったものを食べたり使ったりすると、牝牛でも人間でも確実に鬼籍に入ると信じられていました。インドやアフリカには、月経中の女性を閉じ込め、調理の火や鍋窯を他の家族と別にする「別火」や、施設への立ち入り、生産用具、井戸への接近を禁じる習慣がありました。アメリカのフェミニストたちの報告では、イタリア・スペイン・ドイツ・オランダの農家では、月経中の女性が花や果物に触れるとしなびると言い伝えられてきました。書いているときりがないので、ここら辺にしましょう。
月経禁忌が長い間受け継がれてきた背景には、キリスト教やイスラム教、仏教が月経を禁忌と見なしているところにあります。『旧約聖書』「創世記」レビ記第15章や、コーラン雌牛章がその最たる例です。民俗学者の宮田登氏は、大量出血による死への畏怖や恐怖から月経の特別視、ひいては禁忌を生み出したといいます。また、出血が突然起こる、人為的なコントロールができない、あるいは出血が止まるといった要素もなおさら恐怖の対象になるでしょう。これらの要素が重なり、「血の穢れ」という意識が形成されていったのです。
では、日本における「血穢」の概念はいつ生まれたのか。月経についての最古の記録は、『古事記』中巻の、ヤマトタケルノミコトとミヤズヒメの婚合(性行為)の挿話です。このエピソードは、簡単に言うと、まずヤマトタケルノミコトが征伐に向かう途中ミヤズヒメと出会い、婚合の約束をします。ところが討伐を終えてミヤズヒメの下へ行くと、彼女の月経がはじまっていました。互いに和歌を送り合ったところ、ヤマトタケルがミヤズヒメの返歌に感心し、彼女が月経中であるにも関わらず婚合をした…というお話です。ヘビーですね。この挿話が成立した時点では、月経は禁忌ではなかったんですね。
歴史学者の成清和弘氏によれば、『古事記』『日本書紀』を検討した結果、律令制度以前の支配者層には「血穢」の観念はなかったと言います。民俗世界に「女性の穢れ」の観念が表れるのは、12世紀前後ではないかと考察されています。平安時代に宮廷で始まった月経禁忌は仏教界に広まり、貴族社会に広がりました。仏教界では尼さんが宮中の国家的法界から締め出され、女性の出家そのものが制限され、尼寺も僧寺に従属させられたり、廃絶されるようになりました。その後、室町時代に大陸から伝来した「血盆経」(偽経)により、「女性の穢れ」が一般社会に流布しました。血盆経は、女性が月経等の際に、経血で地神や水神を穢すので、血の池地獄に堕ちるところ、血盆経を信仰すれば救われるという内容です。ちゃんちゃらおかしな話ですね。
月経禁忌の習慣は明治時代初期に解消されていきましたが、地域によっては色濃く残りました。民俗学者の柳田国男氏によれば、月経になった女性が隔離される月経小屋は、「不浄小屋」「よごれや」などと呼ばれました。ここまで聞くとなんてひどい習慣だ…と思ってしまいます。しかし、月経小屋は建前上穢れた女性を隔離するというものでしたが、その実、隔離されて人目に触れなくなることで経血の流出に煩わされることが少なくなったり、日々の重労働から解放され体を休めることができるようになったり、先輩女性から知恵を継承することができました。
参考文献:
・大森元吉「禁忌の社会的意義―血忌習俗をめぐる推論」『伝統と現代』1972年11月号
・ジャニス・デラニーほか『さよならブルーデイ:月経のタブーをのりこえよう』講談社(1979年)
・宮田登『ケガレの民俗誌:差別の文化的要因』人文書院(1996年)
・成清和弘『女性と穢れの歴史』塙書房(2003年)
・細井和喜蔵『女工哀史』新日本出版社(1988年)
・柳田国男『禁忌習俗語彙(復刻版)』国書刊行会(1975年)