そもそもなぜ「やさしい日本語」が生まれたのでしょうか?
きっかけは、1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災です。地震・火事によって亡くなった方を日本人と外国人で比較してみると、日本人は100人当たり0.15人だったのに対して、外国人は100人当たり0.27人と約2倍に及ぶことが判明しました。当時被災地には160か国以上におよぶ国籍の在留外国人が住んでいたものの、地震発生当時の被害状況や避難に関する情報はほとんどが日本語で発信されていました。そのため、命を守るための情報が外国人の方に行き届いていなかったことが原因と考えられています。
さらに、何とか避難所に逃げることができた外国人も避難生活で苦労したことが知られています。何が起きているか全く理解できなかった、支援物資を自分がもらってもいいのかわからず我慢していた、文化や価値観の違いから日本人と仲たがいしてしまったなどがあったそうです。
外国人が災害時に情報弱者になってしまっていたという教訓から、弘前大学の佐藤和之教授らの研究室では外国人がわかるような情報発信を行っていきます。そこで、災害時により迅速に、かつ多国籍の人に向けて情報を発信する手段として考え出されたのが「外国人がわかるレベルの日本語=やさしい日本語」でした。
外国人の方に合わせた母国語で情報発信するのが一番理想的ですが、災害時には通訳者・通訳ボランティアの方も被災者であったり、現地に来ることができない可能性も考えられます。その点、「やさしい日本語」は日本語をベースとしているため、誰でもコツを掴めばすぐに発信できます。このメリットも「やさしい日本語」が広がるきっかけとなりました。
2011年の東日本大震災の際は、佐藤教授の研究室ホームページでは24時間体制で「やさしい日本語」を使った情報を発信し続けました。(現在、このホームページは削除されています)
また、やさしい日本語を使った災害時のニュース速報のひな型や避難所などで利用できるポスターなどもいろいろなコミュニティで用意されるようになりました。このように災害がきっかけとなって生まれたやさしい日本語は、今も減災対策として各地で利用されています。
2020年をもって「やさしい日本語」を発信し続けた佐藤教授の研究室のウェブサイトは閉鎖されました。「やさしい日本語」のプラットフォームなのになんで??と思いましたが、弘前経済新聞の記事にはこう記されています。
「発信当初から当サイトは外国人と外国人を助けようとする日本のみなさんを対象にしていた。私たちがいつまでも発信しているとみなさんの意識を変えられないと考え、四半世紀という節目で閉じることにした」
「誰かが発信してくれる」ではなく「自分から発信する」と意識を変えることによってやさしい日本語はもっと広がるのかもしれません。