ここまでは海外の魚食文化について触れてきました。それでは、日本にはどのような特徴があるのでしょうか。日本は黒潮、親潮、対馬海流、津軽海流、宗谷海流といった複数の海流に囲まれています。四方を海に囲まれ、海に栄養を循環させる潮流に恵まれた日本では豊富な水産資源が獲れます。また、気候や地形が違う地域が多いことから生息する生物種の幅が広く、世界的に見ても水産資源の多様性に富んだ環境と言えるでしょう。そのため、日本では水産資源は古くから重宝され人々の生活に根付いていました。
当時の日本の沿岸部に暮らす人々は分村を繰り返しながら、資源を求めて移動し、漁業や魚食の文化を広めていきました。時には内陸部に暮らす人々との取引として魚介類があり、時には役人の給料、そして神事の供物としても魚介類が利用されてきました。このようにして日本中に魚食文化が広まっていったと考えられています。多岐にわたる文化に深く関わって来た魚介類は、今も日本の主要な資源の一つとなっています。日本の魚食文化は時代と共に、技術の発展に後押しされながら進化を遂げています。一つ一つを取り上げるとキリがありませんので、ここでは日本の個性的な魚食文化をいくつか紹介します。
参考文献
長崎 福三. 日本人と魚 : 魚食と撈りの歴史. はる書房, 1991, 262p, ISBN9784938133337.
全国高等学校水産教育研究会, 東京海洋大学, 東海大学, 海洋研究開発機構. 水産と海洋の科学. 東京, 海文堂, 2014, 171p. ISBN9784303114909.
日本に住んでいると、寿司や刺身といった魚の生食が一般的であることがわかります。しかし、世界的に見ると魚を生で食べる文化というのは比較的珍しいとされています。日本では魚は江戸時代にはすでに生で食べられていたという記録がありますが、それでも生で食べられるのは海沿いに住む、限られたごく一部の人のみでした。
もはや今では海外でも有名となった寿司も、もともとは「なれずし」という発酵食品で、今の寿司とは別物です。なれずしは生の魚を米などの穀物と一緒に漬け込み、発酵をさせることで生の魚の保存性を高めていました。それが江戸時代には、発酵を待たず米と魚をすぐに食べることができる「早寿司」として、今の握り寿司の原型が食べられるようになりました。その後、製氷技術の普及やコールドチェーンの発展と共に魚の生食文化がより一般に定着するようになりました。
唐戸市場で購入したお寿司。
この日はマグロの部位ごとの食べ比べを個人的テーマとした。
遠洋で獲られたマグロを含め、
さまざまな魚種が安心して生で食べられるのは優れたコールドチェーン技術や、
文化を発展させてきた先人たちの努力のおかげだ。
参考文献
長崎 福三. 日本人と魚 : 魚食と撈りの歴史. はる書房, 1991, 262p, ISBN9784938133337.
松浦 勉. 西岡 不二男. 村田 裕子. 越智 信也. 魚食文化の系譜, 東京, 雄山閣, 2009, 183p, ISBN9784639020998.
魚ではありませんが、日本の魚食文化の特徴は刺身などに使われる薬味からも見てとることができます。例えば、わさびは日本特有の薬味です。わさびの機能性は今も研究が行われておりますが、すでに抗菌作用などが示されており、加熱殺菌されていない生の刺身とわさびを一緒に食すことは理にかなっていることがわかります。魚を食べる際にわさびが用いられてきたのは、わさびの抗菌作用による食中毒予防と、魚の生臭さをわさびの成分との化学反応により消すためだったと考えられています。
しかし、わさび特有の辛さは好き嫌いが分かれますよね。人間は「辛さ」というものを鼻と口の細胞が持つ「受容体」という分子を介して感じとります。受容体はいわば鍵穴のようなもので、受容体に合う形の分子のみがくっつくことができ、認識する刺激を伝えます。わさびの辛味成分であるアリルイソチアネートは人間ではTRPA1という受容体に結合することが知られており、この受容体は唐辛子などの辛味(カプサイシン)を認識する受容体TRPV1とは別のものです。受容体が違うことで脳には少し違うシグナルが伝達されていると考えられ、辛味の種類も違うように感じるのです。
これも個人的な想像ですが、様々な生物機能において受容体の数などは多かれ少なかれ個人差(個体差)があるので、「わさび全然辛くないじゃん!」という人と「辛くて苦手!食べれない!」という人では実は本当に体感している辛さの威力が違うのかもしれませんね。
水産系研究室の卒業パーティーで振る舞われた豪華な舟盛り。
豪華な刺身の中に置かれたわさびが爽やかな緑の色合いをプラスし、刺身の色彩を際立たせている。
参考文献
細谷 孝博. “捨てたものじゃないわさびの葉 ~成分と機能性~”. 食品分析開発センターSunatec. (Web), <http://www.mac.or.jp/mail/200501/02.shtml> Last accessed January 21, 2022.
cosine. “ワサビ辛み成分受容体を活性化する新規化合物”. Chem-Station. 2016, 02, 12. (Web), <https://www.chem-station.com/blog/2016/02/wasabi.html>. Last accessed January 21, 2022.
Guimaraes MZP, Jordt SE. “TRPA1 : A Sensory Channel of Many Talents”. In: Liedtke WB, Heller S, editors. TRP Ion Channel Function in Sensory Transduction and Cellular Signaling Cascades. Boca Raton (FL): CRC Press/Taylor & Francis; 2007. Chapter 11. <https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK5237/>. Last accessed January 21, 2022.
Yang, Fan, and Jie Zheng. “Understand spiciness: mechanism of TRPV1 channel activation by capsaicin.” Protein & cell vol. 8,3 (2017): 169-177. (Web). <https://link.springer.com/article/10.1007/s13238-016-0353-7>. Last accessed January 21, 2022.
日本特有の魚食文化を語る上で、鰹節はぜったいに外せません。鰹節は出汁をとるためだけでなく、さまざま日本食の風味付けに用いられています。その華やかな香りは、日本食の代表的な風味の一つとなっています。これほどまでに一般的に使われている鰹節ですが、その作り方は極めて独特です。鰹節は大きく分けて荒節と本枯節という二つの種類があります。どちらもカツオの身を煮て、燻製にした後さらに乾かすことによって作られますが、本枯節はその後カツオ節用のカビをつけることでさらなる脱水と分解を施し、完成します。脱水しきった本枯節は、木材のように固く、ぶつけるとカンカンと音がすることで有名です。カツオを捌いたことがある人や刺身などで食べたことがある人はわかると思うのですが、カツオの身はかなり柔らかく、慎重に扱わないとすぐに身崩れしてしまいます。それが最終的にガチガチに固くなるわけですから、ものすごい身質の変化を遂げていることがわかります。
このような工程、特に「カビ付け」の工程を行い脱水した魚を食べる文化は日本ならではの文化です。
参考文献
“【鰹節の作り方】生の鰹から堅い鰹節ができるまでの12の工程”. 和食の旨み. 2018, 03, 16. (Web), <https://www.kobayashi-foods.co.jp/washoku-no-umami/how-to-make-dried-bonito> Last Accessed January 21, 2022.
”鰹節ができるまで”. にんべん. (Web), <https://www.ninben.co.jp/about/making/>. Last Accessed January 21, 2022.
竹内 俊郎. 中田 英昭. 和田 時夫. 上田 宏. 有元 貴文. 渡部 終五. 中前 明. 橋本 牧. 水産海洋ハンドブック. 東京, 生物研究社, 2016, ISBN 9784915342738.
私が個人的に特に面白いと感じた日本の魚食文化は「ねり製品」です。
ねり(練り)製品とは、かまぼこなどの魚のすり身を加工した製品のことを指します。
日本のねり製品の文化はとても古く、確認されている文献の中で最も古く記載があるものは平安時代の記録(西暦1115年)だとされています。かまぼこなどの見慣れたねり製品は、実はとても歴史のある日本の伝統文化なのです。ねり製品は英語でもSurimi-based productと呼ばれており、「すり身」という日本語が含まれていることからも、日本に特徴的な文化であると思われます。しかし、どうやらタイや韓国でもすり身製品はよく食されているらしく、製法や起源は日本と一緒なのか興味があります。これに関しては、さらなる調査が必要なので今回は日本のねり製品に注目してお話しします。
さて、このねり製品ですが、みなさんいくつ思い浮かべることができるでしょうか?
かまぼこ、ちくわ、笹かま、魚肉ソーセージ、カニかま、すぼまき、さつま揚げ、はんぺん… 色々ありますよね。これら全てのねり製品に共通する特徴として、独特の弾力ある食感があります。食品分野ではこのような物理的特性を総じてテクスチャーと呼ぶようです。そのまま調理した魚の身と、すり身を使って「練った」ねり製品とではテクスチャーが大きく違います。このテクスチャーの違いは、タンパク質の変性を利用した化学的プロセスによって生まれているのです。
タンパク質の変性とは、タンパク質が温度やpHなどの環境の変化により本来の構造を保てなくなり、性質が変化してしまうことを指します。例えば、料理における加熱はこのタンパク質の変性を促し、食材を食用に適した性質に変化させる目的もあります。魚の身(筋肉)は主にアクチンとミオシンという筋繊維を構成するタンパク質と、その他数種類のタンパク質からできています。ねり製品では、このようなタンパク質の変性を絶妙なバランスでコントロールして行うことで製造されています。例えば、加熱のタイミングや温度が適切でないと、すり身に含まれるタンパク質同士の結合が上手く形成されず、粘性を失ってしまうため成形ができなくなります。ねり製品独特の食感を生み出すためには、適切な加熱や塩などの添加によって、本来のタンパク質の構造を一度ほどよく崩壊させ、新たにタンパク質同士の結合を促すことで、狙った食感を作り出す必要があります。なお、ねり製品の科学については水産海洋ハンドブックを参考にして書いておりますので、より詳しく知りたい方は一度読んでみることをお勧めします。
カニカマと蒲鉾
食感も風味も違うが、どちらも魚のすり身を原料に作られる。
使う魚の種類などで味や食感が変わる。
カニカマはすり身を麺のように成形したあと束ねて、
カニの風味付けが施されて完成する。
参考文献
竹内 俊郎, 中田 英昭, 和田 時夫, 上田 宏, 有元 貴文, 渡部 終五, 中前 明, 橋本 牧. 水産海洋ハンドブック. 東京, 生物研究社, 2016, ISBN 9784915342738.